【ヤハウェとイエス・キリストについて知る為の助け】《続編》(2)「癒されたサマリア人から学べる教訓」

今回も、

一つの記述から学んでゆきたいと思います。

 

聖書の範囲は、

ルカによる福音書17章11~19節です。(新共同訳から)

 

では、早速、当時の背景から考えてみましょう。

 

*時は西暦33年の春になろうとしていたころ、イエスの死が刻々と近づいていました。

 

この時、イエスたち一行は、

サンヘドリンから、命を狙われていましたが、やはり、イエスを筆頭とする強者(つわもの)たちです。

無事に難を逃れ、

エルサレムを離れて、サマリアを通ってガリラヤ地方へ向かい、

更に、ヨルダン川の東のペレアの山へ向かっていました。

 

それから少しすると、

重い皮膚病を患っている10人の男たちに会います。

因みに、口語訳聖書では、

「らい病」と訳されています。

体の各部が、徐々に腐ってゆく、

当時では不治の恐ろしい病でした。

 

モーセの律法では、

相手に感染させないように、

祭司たちが、「治った」という宣言をされた者でなければ、

誰にも近づく事は許されていなかった為、その律法を守って、

エスから遠く離れたところから、大声で、

 

「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と叫びます。

エスはどうされるでしょうか?

 

「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」

と言われます。

 

すると、彼らは祭司たちに会いに行く途中で皆が癒され、

彼らの「信仰」は報われます。

 

しかし、癒された らい病人のうち、

9人はそのまま家に帰って行きますが、

 

サマリア人である一人は戻って来て、イエスを捜します。

 

どうしてでしょうか?

その人は、

自分が 奇跡的に癒された事柄を、

とても「感謝」していたからです。

 

その人は大声で《ヤハウェを賛美》し、イエスを見つけると、その足もとにひれ伏して《感謝します。》

 

エスは、

「清くされたのは十人ではなかったか。

ほかの九人はどこにいるのか。

この外国人のほかに、

神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」

それからそのサマリア人の男に、

 

「立ち上がって、行きなさい。

あなたの信仰があなたを救った。」

と言われました。

 

☆皆様は、何故この出来事が福音書に記述されたと思われるでしょうか?

 

*我々は、この記述を読む際に、

「、、《ほかの九人》はどこにいるのか。」

と言われたイエスの問いに含まれている教訓を、

心に深く銘記すべきではないでしょうか?

 

この9人が示した《感謝の念》の欠けた態度は重大な欠点と言えるかも知れません。

 

✍️

*この事は決して、他人事ではありません。

皆様はどうでしょうか?

 

(1)

自分の母国語で聖書が読める事。

(口語訳 新改訳 新共同訳など)

 

(2)

聖書の正確な知識を学ぶのに無償で学べる事。

 

(3)

出来る範囲で、備蓄や武装が出来ている事。

 

(4)

悪魔の攻撃がある程度、事前に理解出来ている事。

 

(5)

獣の刻印を身につけなくてもいいように守られている事。

 

(6)

自己管理(健康管理)、危機管理、

リスク管理に注意をはらっている以上、不要なトラブルに巻き込まれないよう守られている事。

 

(7)

旧約聖書時代の偉人たちより、

遥かに素晴らしい約束の成就にあずかれる事。

 

(8)

ヤハウェに引き寄せられ、

エスのもとに来る事が可能になった事。

 

(9)

ヤハウェから、144000人級として仮選別されている事。

或いは、その他の仮選別者としてヤハウェから見て頂いている事。

 

(10)

自分が過去に犯してしまった全ての罪が赦され、

更に、毎日の生活で、不完全ゆえとは言え、キリストの流された血により、自分の罪が継続的に許されている事。

 

(11)

悔い改めて、過去の罪深い生き方を捨て、ヤハウェが忌まわしいと思っておられる《汚れた習慣》を

《慣わしにしていないなら》、今でさえ、清く、白く、

望ましい者として見て頂ける事。

 

(12)

この対処しにくい困難な最中でも、《普通》に生活出来ている事。

一日三食というより、一日一食の食事が出来る事は、現在の情勢を考えるなら、決して当たり前ではありません。

又、屋根の下で雨露をしのげて、鍵を掛けて安心して睡眠をとる事も出来ない人が、この日本でもどれだけいるでしょうか。

それを考えるなら、自分の置かれた境遇はどうか、と考えてみて下さい。

(*勿論、現在でも身体的な持病や慢性的な精神疾患を抱えている方もおられるかも知れませんが、全く身動きがとれない状況からは、何とか保護されているかも知れません。

ただし、「群れの監督者」は、悪魔からの直接的な攻撃により、ヨブ状態で、全く身動きがとれない、という事は多々あります。

この点に関しましては、後日、

yahweh-ksrg's blog様の方から解説があると思います)

 

(13)

亡くなった愛する者にも、復活の希望がある事。

 

(14)

将来の輝かしい希望や報いが用意されている事。

 

(15)

自分のプレイヤーが聴かれている事。

 

(16)

日々、生かされている事。

 

(17)

この特別な時代に、狭き門に入れる事。

入ろうと努めながら入れない者が多い中で。

 

(18)

ヤハウェから用いられている事。

 

(19)

御使いたちに保護されている事。

 

(20)

真理を知り、更に、霊的な食物で養われている事。

 

(21)

真理を知る事により、様々な要素から自由になった事。

 

(22)

今から、高次元に国籍を移す事を許されている事。

 

(23)

悪魔や悪霊から保護されている事。

 

(24)

この世がどのように終わるのかを、知らされている事。

 

(25)

この悪魔の世で、新しき人、

つまり、新しい人格を培えるよう、ヤハウェからの助けがある事。

 

(26)

聖霊の様々な助けがある事。

 

(27)

聖書の原則を当てはめる事により、結果的に、益々霊的に成長出来る喜びを味わえる事。

 

(28)

悪魔が誘惑を試練として、又、その他の様々な要素から生じる試練を自分の前に置いてきた時でさえ、

忍耐という新しい人格を培う機会になり、そうでなくとも、何かしらの逃れ道を設けて下さっている事。

 

(29)

エス・キリストという最大の模範者を示して下さっている事。

 

(30)

自分の霊的な成長の為に、

ヤハウェが忍耐強く待って下さっている事。

 

(31)

詩編91編などの聖書の預言が既に現在進行形で成就している事により、ヤハウェからの保護を経験出来ている事。

 

(32)

聖書の正確な知識を正しく理解し、実践した経験によって、今でさえ、知恵、

識別力、洞察力が鋭敏になるよう助けられている事。

 

(33)

ヤハウェの無限の霊的な力を頂ける事。

 

(34)

この終末の期間の悪魔の世で、

本物の《愛》を培う事が出来るよう助けられている事。

 

(35)

高次の最高主権者ヤハウェが、

常に側にいて下さる事。

 

(36)

終末の期間に生まれ、ヤハウェに導かれた今がある事。

 

(37)

人生の真の目的を見いだせている事。

 

(38)

ハルマゲドンを生きて通過し、この悪魔の世の終わりの目撃証人になれる事。

 

(39)

今の期間に、天に宝を積む事が出来る事。

 

(40)

個人差はありますが、今でもヤハウェからのインスピレーションを受け取れる事。

 

(41)

どれだけ人間が暴走しようが、地球そのものが安定している事。

 

(42)

自分から離れたり、自滅しない限り、ヤハウェから見放されることはない事。

 

(43)

太陽系内の秩序が保たれている事。

 

(44)

以前、プレイヤーをしていた事が、絶妙のタイミングで聴かれ、本当に助けられた、と実感した時。

 

(45)

不完全で塵くずにも等しい自分に、ヤハウェが、愛情、憐れみ、寛容、忍耐などを示して下さり、何より愛して下さっている事。

 

(46)

最後まで頑張るよう期待して下さっている事。

 

(47)

この悪魔の世で、周囲が、自分、自分となっている中で、慎みや謙遜、又、他の人に対する配慮など、ヤハウェが喜ばれる特質を培うよう助けられている事。

 

(48)

一般では一番難しいと言われている、他の人を許す事が、ヤハウェのおかげで、許せるようになった事。

 

(49)

今の時期特有の不安感や病的な恐れから守られて、心の平安を得ることが出来ている事。

 

 

など。

 

 

パウロは、

テサロニケの信徒への手紙5章18節で、

「どんなことにも感謝しなさい。

これこそ、キリスト・イエスにおいて、

神があなたがたに

《望んでおられること》です。」

と書いています。

 

☆確かに、「信仰」はとても重要なヤハウェの御旨の一つです。

事実、「信仰」はヤハウェを喜ばせる事が出来ます。

(ヘブル人への手紙11章6節 参照)

 

しかし、

「すべてのことにおいて感謝」することは、

ヤハウェが、

我々に《望んでおられる事》なのです。

 

よく考え下さい。

「感謝」する事は、ヤハウェが、我々に《望んでおられる事》なのです。

 

何故なのでしょうか?

 

 

この終末の期間の末期において見られる人々の特徴の一つとして、

 

テモテ第二3章には、

「、、恩を知らず」と書かれてある人々が現れる事が書いてありますが、

 

このギリシャ語の字義通りの意味は、

「感謝の欠如」と言う意味があるそうですが、

まさに、

「感謝の欠如、感謝しない者、恩知らず」

今の悪魔の世をよく表しているのではないでしょうか?

 

☆さて、ここでよく考えて頂きたいのですが、

信仰を働かせ、イエスに癒された9人のユダヤ人たちは、その後、どうなったのでしょうか?

 

癒された当時は、《信仰》はあったとしても、

「感謝」の欠如と言う問題が果たして調整されたのでしょうか?

 

ルカは、この記述を、西暦58年頃に筆記しています。

 

もし、その頃までに、そのような感謝の欠如が改善されていたなら、

敢えて、このような記述を筆記する意味はなくなります。

後に改善されたのであれば。

 

*恐らく、これらの人たちは、

癒された事も、すっかり忘れて、

日常の生活に忙しくしていた事でしょう。

 

それを考えると、

西暦70年のユダヤの体制で滅ぼされた、約1100000人、或いは、捕虜として連れて行かれた約97000人の中に入っていた事になるでしょう。

 

 

では、何故このような記述が福音書に載せられているのでしょうか?

 

又、パウロも、テサロニケの信徒たちに、何故、

「すべてのことにおいて感謝」

するようにと、ある意味、当然とも言える事を敢えて、手紙の中に筆記したのでしょうか?

 

 

🖌️🖌️

☆答えは、我々人間は、

感謝の欠如、感謝しない事、

何もかも当たり前、と言う気質を、

《アダムから受け継いでいる》からです。

遺伝の法則として。

 

勿論、個人差はあるでしょうが。

 

つまり、

「感謝」は、誰もがすぐに身に付くものではない、と言う事です。

 

*新しき人、《新しい人格の一面》だと言う事です。

 

ヨハネの黙示録4章9~11節を見ると、

ケルビムたちやセラフィムたちの模範を知る事が出来ます。

 

もし、自分は感謝が欠けている、

と感じたなら、

新しい人格の一面である以上、

「感謝する事」を

《培わなければならない》、と言う事になります。

 

自然と身に付くものではない、と言う事です。

 

*もっと言うなら、出来るだけ感謝するよう、気にかける以上の努力が必要と言えるでしょう。

 

又、興味深いのは、イエスが最後に言われた言葉です。

 

「あなたの感謝における認識は立派だ」

と述べたのではなく、

 

「あなたの《信仰》があなたを救った」

 

と言われたのです。

 

🖌️🖌️

*つまり、《ヤハウェへの感謝》、

と言う基盤がなければ、

《本物の信仰》は培えない、と言う事です。

 

一時の強い信仰心を抱いていても、《感謝する、と言う特質》を培っていないなら、

いつか、そのような信仰は崩されてゆく事でしょう。

 

🖌️🖌️

では、どのようにして、

感謝する、と言う特質を培う事が出来るのでしょうか?

まず

毎日のプレイヤーの中で、一度は、

ヤハウェに、

「全ての事において感謝することが出来るよう、私の人格を造り直して下さい。その為に、あなたの強力な霊の助けを与えてください」

というプレイヤーを行う事です。

そうするなら聖霊も助けてくれるでしょう。

このプレイヤーは毎日一度は行うようにおすすめ致します。

 

 

②それから、

✍️しるしからの項目を、

(全部で、「(49)項目」)

よく自己吟味し、

出来るだけ感謝する事を

《心掛ける》努力です。

 

③*更に、

《まだまだ感謝出来る理由》を、

個人的に探しだす努力。

(*分からなければ、ヤハウェに気づかせて下さい、とプレイヤーを行う事も出来るかも知れません。

勿論、なければ、②の項目を心掛ける事が出来るでしょう)

 

④そして《その都度》、

《口に出して》、或いは

《心の中で》、

ヤハウェに感謝する習慣》を身につけるとよいかも知れません。

よく考えてみると、毎日、食べる事、飲み物が与えられている事。

衣服が与えられている事。

安心して家の中で睡眠がとれる事。

もっと言うなら、呼吸が出来ることも決して当たり前ではありません。

 

*食事をする時、ヤハウェに感謝する事が出来るかも知れません。

*寒い中で暖かい部屋で過ごせる時も。

*睡眠をとる時も。

*形式ばる必要はありません。

感謝したい状況が生じたら、その都度、

ヤハウェ、ありがとう。感謝です」

こんな感じでいいと思います。

 

(*その時、《心から感謝する》、という事です)

 

⑤そして、

感謝の言葉を述べたり、心の中で感謝したりする時、

ヤハウェが喜んで下さっている》事を《確信》して下さい。

(*そうするなら、感謝する事から喜びを味わい知る事が出来るようになってきます。

自分が何かしらの事で感謝した時、「今、ヤハウェが喜んで下さっている」と、その都度思い描いてみて下さい。)

 

 

そうするなら、本心から、何事においても、感謝出来る人格へと成長出来るでしょう。

 

🖌️🖌️

では、《感謝する事》が、新しい人格の一面である以上、

もし、《新たに培う努力をしない》なら、どうなるのでしょうか?

 

エフェソの信徒への手紙4章22節を見ると、

 

「だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、

《滅びに向かっている》古い人を脱ぎ捨て、」

と書かれてあります。

新共同訳のこの部分の訳しかたは、字義通りに訳されています。

 

「滅びに《向かっている》」

と訳されているのです。

 

《向かっている》

 

つまり、《感謝する事》を、

新しい人格として培わないなら、

「滅びに向かっている」と書かれている以上、

いつか感謝の念の欠如が、現在進行形で、《自分をむしばんでくる》、という事です。

 

もしかしたら、皆様の中で、頭では理解していたとしても、

✍️しるしからの項目が、

気付かないうちに、

《当たり前》になってないでしょうか?

 

「自分は大丈夫だ。自分にかぎってそれはあり得ない」

と思われるでしょうか?

 

*自分は大丈夫だ。

出来ている、と慢心している時点で、思い上がっている、つまり、

高慢になっているかも知れません。

 

(テモテ二3章 参照)

 

 

それと、

今回は一つの聖書の部分をご紹介したいと思います。

 

詩編 107編全体を、

《お持ちの方は新改訳聖書で》

祈りのうちに黙想なさってみて下さい。

ヒントを見つける事が出来るでしょう。

この部分は、今日(こんにち)、霊的に成就しています。

この部分の解説は、又後日、

行う事が出来たらと思います。

 

🖌️🖌️

では、今、この時期に、

「感謝する事」を培わないなら?

次の【144000人の奥義】

(5)「ともし火をともしていなさい」

《ともし火とは?油とは?》

の記事とも関係がある

《ある者たち》になってしまうかも知れません。

では、次の記事も是非、楽しみにして下さればと思います。

 

今回の記事で益を得られた方々は、ヤハウェに感謝して頂ければと思います。

 

 

 

🖌️🖌️

さて、この機会に、あらゆる方面からの自己防衛並びに、聖書の正確な知識を学びたい、と思われる方々は、

YouTubeチャンネル

From KSRGの動画から学ぶ事ができます。

https://youtube.com/channel/UCO2WQX_rXeURX0F40r1I88w

 

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