聖書でいう「喜び」についての感想
今回は、喜び、について考えてみました。
今からの内容は、プレイヤーをして、ヤハウェからインスピレーションとして降りてきたもの、及び、
これまで、YouTube From KSRGから学んだ知識、そして、
yahweh-ksrg's blog様から、個人的に教えて頂いた情報、
更には、祈りのうちに黙想したものです。
御子イエス・キリストを通し、唯一真の神ヤハウェに、誉れと栄光と讚美とが帰せられますように。
さて、
この悪魔の世で生活していると、又、大きな苦難へ向けて、益々厄介な世になっていく事でしょうが、
それを考えると、
私も、家族の頭として、当然、家族を養って行かなければなりませんし、その他の様々な責任もあります。
個人的には、5つの事を、可能な範囲で実践してますので、
一応、体の訓練も毎日行っております。(約1時間ほど)
確かに、忙しい生活、と言えば、そうかも知れませんが、
しかし、ヤハウェは、自分を、悪魔の権威から、高次元側へと引き寄せて下さった事で、
それまで、真理を知らなかった時は、将来の哀れな自分しか想像出来なかったものを、
輝かしい永遠の希望溢れる報いへと、私の思考を変えて下さったのです。
それで、
今一度、聖書の中でいう「喜び」について考えてみたいと思います。
例えば、
テサロニケの信徒への手紙一5章16節をみると、
「いつも喜んでいなさい」
と書かれてあります。
「いつも喜んでいなさい」と。
或いは、ガラテヤ人への手紙5章22節には、
我々が身につけなければならない特質の、2番目に、
「喜び」が取り上げられているのです。
「喜び」とは、
それだけ、大切な特質の一つと言えるのではないでしょうか。
では、この「喜び」を、
どのように解釈するとよいのでしょうか?
☆一つ気をつけなければならないのは、悪魔の策略です。
我々は、真理を知っている、いない に関わりなく、いずれにしても、今の生活を、最後まで続けていかなければならないわけです。
しかし、どうでしょうか?
悪魔の策略はこうです。
例えば、
メッセンジャーを行っていて、
もし、喜びがなくなってきた場合、
不完全な人間は、こう考えるかも知れません。
「ヤハウェに仕えているからだ」と。
もし、このような考えがよぎったとしたら、完全に悪魔の落とし穴に、はめられていることにならないでしょうか。
喜びがなくなるのは、
決して、ヤハウェのせいではありません。
.むしろ、自分が、喜びの本質からぶれているだけ。
.或いは、最初から、真の喜びを経験して来なかったから。
.もしかしたら、悪魔に、なにかしらの状況下に追い込まれて、そのように思わされているだけなのかも知れません。
では、真の喜びとは何でしょうか?
例えばですが、
自分の趣味や楽しみごとだけに没頭し、という意味ではない事は普通に理解して頂だけると思います。
なぜなら、新改訳2017
ローマ人への手紙15章1節後半
そして、3節中ほどを見ると、
「、、、自分を喜ばせるべきではありません、、、キリストもご自分を喜ばせることはなさいませんでした。、、」
と書かれてあるからです。
ですから、テサロニケ 一 5章16節、及び、
ガラテヤ人へ手紙5章22節で述べている「喜び」は、次のような喜びの事です。
①我々は、ヤハウェが与えて下さった希望や報いを一心に思い見て、常に、喜ぶ事が出来ます。
②勿論、必然的に、天に宝が蓄えられている事になりますので、その事も喜びです。
③更に、ヤハウェに喜んで頂いている、というのは、至福の喜びです。
④そして、キリストの足跡にしっかり従っている、という満足感、これは、自分が、この世に生まれてきた存在意義、つまり、自分の生き方は全くぶれていない、という安心感からくる喜びです。
⑤何よりも、そうすることによって、悪魔を遠ざけている、という、これも、当然喜びに含まれるでしょう。
⑥更に、もし自分に、悪魔が、なにかしらの誘惑や試練を置いてきたとしたら、
ヤコブが書いた次の心境です。
ヤコブの手紙1章2~4節
(新改訳)
「私の兄弟たち。様々な試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい。あなたがたが知っているとおり、信仰が試されると忍耐が生まれます。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者となります」
と書かれてあるように、
こんなチャンスはありません。
(☆なぜ、そう言えるのか?忍耐については、又、後日、考察したいと思います)
話を戻しますが、
テサロニケ 一 5章16節、及び、
ガラテヤ人への手紙5章22節にある、「喜び」とは、
自分の趣味や楽しみ事だけに没頭し、と言うことではなく、
上に挙げた①~⑥のような類いの、「喜び」の事だという事です。
ですから、
繰り返しになりますが、
ローマ人への手紙15章1節後半、3節中ほどで、
「、、、自分を喜ばせるべきではありません。、、、キリストもご自分を喜ばせることはなさいませんでした。、、」
と書かれてあるわけです。
しかも、そればかりか、
同じ章の2節には、次のようにも、書かれてあります。
ローマ人へ手紙15章2節
「私たちは一人ひとり、霊的な成長のため、益となることを図って隣人を喜ばせるべきです。」
と書かれてある通りです。
あくまでも、
喜びの本質は、
「霊的な成長のため」だという事です。
そして、自分ではなく、他の人の益の為に、他の人に真に幸福になって頂く為、そのようにして、喜んで頂けるよう、自分自身を費やす、
これこそ、キリスト・イエスの生き方です。
キリストの足跡、と言えるでしょう。
このような特権を、一人でも多くの方々が、とらえて下さる事を祈る毎日です。
そして、ヤハウェは、私のような拙い者をも、用いて下さり、メッセンジャーという、たぐいまれな特権を委ねて下さいました。
ですから、あくまでも、プレイヤーをして得た、私個人の考えですが、
この聖なる務めの場を、なにかしら、個人的な、余り意味のないものにはしたくありません。
もし、なにかしらの縁で、この記事を読んで下さった方々の、貴重なお時間を無駄にはしたくないからです。
又、そのような方々に対しても失礼ですし、何よりもヤハウェに対して、無礼極まりない行為だと思います。
次の聖句に書かれてある通りです。
エフェソの信徒への手紙5章15~17節
「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい」
と書かれてあるからです。
この聖句は、今、まさに、時宜に敵っている、と言えないでしょうか。
更に、使徒パウロは、霊感によって、次のようにも、書き記しました。
「、、、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。」
と書かれてある通りです。
確かに、メッセンジャーという務めは、特権ではありますが、重い責任の伴った務めでもあります。
決して、いい加減に、或いは、軽々しく考えるべきではないでしょう。
そして、気をつけなければならないのは、ヤハウェではなく、人からの好意、注目、称賛、とにかく、
自分、自分、自分となってしまったら、一体、誰を喜ばせている事になるでしょうか。
あくまでも、メッセンジャーの務めは、真の救済策を提示して下さっているヤハウェに、人々の注目がいくようにしなければならないでしょう。
今、全てのメッセンジャーの方々は、次の、霊感による、パウロの言葉を肝に命じて下さればと願います。
テサロニケの信徒への手紙 一 4章1節
「さて、兄弟たち、主イエスに結ばれた者としてわたしたちは更に願い、また、勧めます。あなたがたは、神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを、わたしたちから学びました。そして、現にそのように歩んでいますが、どうか、その歩みを今後も更に続けて下さい。」
と書かれてある通りです。
今回は、聖書でいう「喜び」について、少し考えてみました。
今後、大きな苦難へ向けて、益々、対処しにくい時代へと突き進んで行くでしょうが、
一体自分は、誰を喜ばせようとしているのか?
自分か?悪魔か?それともヤハウェか?
そして、悪魔が提供しているこの世から喜びを得るのではなく、
あくまでも、ヤハウェを喜ばせている事から得られる、真の喜びを保つよう、最後まで、気を抜かないようにしたいと思いました。
少しでも、144000人級、そして一人でも多くの仮選別者の方々の益になればと願います。
主キリスト・イエスを通して、至高の神ヤハウェからの限りない愛と平和、そして、保護や祝福が、全ての仮選別者、並びに、これから、気づきが与えられる方々に、注がれますように。
#文章が雑になってしまった事をお詫びします。
一度読みで分からない場合は、まことに申し訳ありませんが、何度か読んで下さる事をおすすめ致します。
☆「お知らせ」では、(木)と(日)に、記事を更新する予定でおりましたが、仕事の都合上、次回の記事の更新日は未定です。
出来るだけ早く記事を更新出来るように致しますので、ご了承下さい。