「本日の聖書の言葉」⑤《詩編119編97節~ ヤハウェのみおしえとは?》【後編】

今回は、前回からの続きです。

 

その前に、

今、yahweh-ksrg's blogさんの方から、ヨハネの黙示録11章の最新の解釈記事が更新されていますが、この11章は、旧約の他の預言書と照らし合わせないと意味が掴めません。

難しく思えるところもあるかも知れませんが、皆様が、定期的に個人研究をして下さり、

ヤハウェからの祝福を享受出来ますよう祈っております。

さて、もう少し先になるかも知れませんが、yahweh-ksrg's blogさんの方から、

(*勿論、それまでに大きな苦難に突入しなければ、ということですが)

ヨハネの黙示録16章の最新の解釈記事を更新される予定ですので楽しみにしたいと思います。

 

 

では本論に入ってゆきましょう。

 

まず、前回考えた、詩編119編の筆記者ですが、

恐らくヒゼキヤです。

ヒゼキヤの名前の由来は、

「 ヒゼキ 」→  ( 力を与えて下さる )

 

「 ヤ 」→   ( ヤハウェの短縮形 )

ヤハウェが力を与えて下さる 」

 

という意味です。

 

ヒゼキヤについては、

ソロモンの書き記した箴言に関心を抱いていたことが次のように、書かれてあります。

箴言の写本の編さんに貢献したことは有名な話です。

 

箴言25章1節には次のように書かれてあります。

(新改訳2017)

「次もソロモンの箴言であり、

ユダの王ヒゼキヤのもとにある人々が

書き写したものである。」

 

と。

 

勿論、それらの事を行ったのは

ヒゼキヤだけではありません。

 

 

ここで、

「、、ヒゼキヤのもとにある人々が書き写したものである。」

 

とあります。

 

《ヒゼキヤのもとにある人々》 というのは、《写字生》たちのことですが、

この写字生たちの一団を指揮していた人物、そして 更に、

ヒゼキヤを教育し、

訓練していたヤハウェ預言者です。

 

その預言者というのはイザヤです。

 

イザヤの名前の由来は、

 

「 イザ 」 →   ( 救って下さる )

 

「 ヤ 」 →   ( ヤハウェの短縮形 )

ヤハウェは救って下さる 」

 

という意味です。

 

 

後に、イザヤは、

ヤハウェからの啓示を受け、

イザヤ書という大預言書を筆記することになるわけですが、

イザヤは、預言書を書く前から、

ヒゼキヤを教育していたわけですが、そのことを思わせる根拠ともなる聖書の言葉が、詩編119編の中に数多く書き記されています。

恐らく、ヒゼキヤは、イザヤから学んだことを、パピルス紙に書き記していたのでしょう。

それが、後に、詩編の一部になったということです。

 

イザヤは、偉大な教育者ヤハウェから、王の教育を任されていました。

 

 

では、詩編119編から一部抜粋して、イザヤからどのような教育を受け、訓練されていたのか、

ヒゼキヤ自身の言葉と、

後に、イザヤが筆記することになるイザヤ書と比較してみましょう。

 

 

例えば、

詩編119編26節を見ると、

(新改訳2017)

「私は自分の道を申し述べました。

すると、

あなた(ヤハウェ)は私に答えてくださいました。

どうか あなたのおきてを

私に教えてください。」

ヒゼキヤは個人的なプレイヤーの時、ヤハウェに、

 

「自分はこうしようと思いますが、ヤハウェ、あなたの意見はどうでしょうか?」

 

と尋ねたわけです。

すると、ヤハウェは、

最も相応しい時に答えを与えて下さった、ということです。

 

更に、引き続き、自分を導き続けてほしい、と嘆願した、ということです。

ヤハウェは、時にはインスピレーションを与えて、気づかせたり、

イザヤを通して、御言葉の正確な知識を与えたことでしょう。

 

後にイザヤは、ヒゼキヤのこの経験も含め、更にヤハウェから啓示された預言を、

次のように書き記したのです。

イザヤ書30章20、21節

(新改訳2017)

「、、、

あなた(ヤハウェの僕)の目は

あなたを教える方(ヤハウェ)を

見続ける。

あなたが右に行くにも左に行くにも、

うしろから

『これが道だ。これに歩め』ということばを、

あなたの耳は聞く。」

 

と後に、イザヤは筆記しました。

 

ヤハウェの僕たちは、ヤハウェとの個人的な関係を深めてゆけば、

「右に行くにも左に行くにも」

つまり、人生という歩みには、

色々な判断、決定を下さなければなりませんが、

その結果 途中でどう転んだとしても、

或いは、脇道にそれたとしても、

しっかりとヤハウェと繋がっているなら、

ヤハウェが、行くべき道を、

又、最終目標へと導いて下さる、ということです。

時には、インスピレーションで気づかせて下さる時もあるでしょうし、もしかしたら、正確な知識を黙想して正しい結論に至ることもあるかも知れません。

 

 

 

では、

もう一つの例も考えてみましょう。詩編119編105節です。

これは、ヒゼキヤが、

イザヤから教育され、訓練されて、実践した経験からこの結論に至ったものと思われます。

 

(新改訳2017)

「あなたのみことばは

私の足のともしび

私の道の《光》です。」

 

後に、イザヤは、ヒゼキヤに教えた真実のみならず、この事実が更に拡大し、全世界にいる全てのヤハウェの民に対しても同じだということを次のように筆記しました。

イザヤ書51章4節

(新改訳2017)

「わたしの民よ、

わたしに心を留めよ。

わたしの国民よ、

わたしに耳を傾けよ。

おしえはわたしのもとから出て、

わたしが、

わたしのさばきを

諸国の民の《光》と定めるからだ。」

 

と。

 

これらはほんの一部ですが、

イザヤ書の預言は、詩編119編を補足する仕方で、預言的に書き記されている部分が多数あります。

 

さて、今回の話の結論です。

 

もう一度、詩編119編97~99節に注目してみましょう。

 

(新改訳2017)

「どれほど私は

あなたのみおしえを

愛していることでしょう。

それが いつも(*直訳「一日中」)

私の思いとなっています。

あなたの仰せは

私を敵よりも賢くします。

それがとこしえに私のものだからです。

私には

私のすべての師にまさる賢さがあります。

あなたのさとしが私の思いだからです。」

 

と、このように詩編119編につづったのです。

ヒゼキヤは王であり、学者、詩人、

数学者、賢者、戦士、指揮官、

画家、弦楽器奏者、管楽器奏者、

指揮者、歴史家、建築設計家でした。

様々な学問や芸術、更に戦闘術に熟知していました。

そのような中で、様々な師と仰ぐ者たちがいたかも知れませんが、

ヒゼキヤの言葉を借りるなら、

「私には

私のすべての師にまさる賢さがあります。」

 

と言い切ることが出来ました。

 

確かにヒゼキヤは、世間一般でいう、いわゆる凡人ではなかったかも知れませんが、

(*一般的に考えるなら並の人物ではなかったかも知れません。)

 

それら 自分が今までに修得してきたもの、

又、それらを修得させてくれたどんな師よりも、もっと価値あるものが自分にはある、と言いたかったわけです。

 

それが、御言葉の《正確な知識》です。

 

イザヤは御言葉において、師ではありませんでした。

御言葉については、あくまでも、

偉大な教育者はヤハウェでした。

 

イザヤはヤハウェに用いられていた従属の教育者に過ぎません。

 

興味深いことに、

詩編119編97節をまず、口語訳聖書の訳を見ると、

(口語訳)

「いかにわたしは

あなたの《おきて》を

愛することでしょう。

わたしはひねもす

これを深く思います。」

 

と訳されています。

 

新共同訳では、

(新共同訳)

「わたしはあなたの《律法》を

どれほど愛していることでしょう。

わたしは絶え間なく

それに心を砕いています。」

 

と訳されています。

 

しかし、新改訳2017年版では、

(新改訳2017)

「どれほど私は

あなたの《みおしえ》を

愛していることでしょう。

それがいつも

私の思いとなっています。」

 

と訳されています。

 

この部分に関しては、

新改訳2017年版の訳し方が、一番、原語に近い訳し方がなされています。

確かに、どの訳し方も間違いではありません。

御言葉は、

ヤハウェの「おきて」であり、

「律法です。」

しかし、新改訳2017年版によると、

「みおしえ」なのです。

 

 

【みおしえ】

解釈的には、

ヤハウェの御言葉を、正しく解釈し、理解した正確な知識を、正しい判断力、識別力、洞察力を働かせて、実践することにより、その経験によって得た真理のこと。」

御言葉(聖書)は、《正しく解釈》し、

《理解した正確な知識》を

《実践》しないなら、

  益はありません。

これまで何度も述べてきた通りです。

そのような経験の繰り返しによって、人は霊的に進歩してゆくのです。

 

 

ヤコブの手紙1章22節に、

(新共同訳)

「御言葉を《行う人》になりなさい。

自分を欺いて、

《聞くだけで終わる者》

になってはいけません。」

 

と書かれてある通りです。

 

 

御言葉を行う者になる為には、

正確な知識が必要です。

 

 

では、新改訳2017年版の詩編119編97節に、もう一度、注目しましょう。

(新改訳2017)

「どれほど私は

あなたの《みおしえ》を

愛していることでしょう。

それがいつも

私の思いとなっています。」

ヤハウェの「みおしえ」です。

 

聖書は知っているだけでも、

概観出来ているだけでも、

聖句を沢山知っているだけでも意味はありません。

 

繰り返しますが、

まず、正しく解釈し、

理解した正確な知識を実践しないと意味がない、ということです。

 

ですから、ヒゼキヤは、

*個人的には、イザヤから、

*民が教育される時には、大祭司から、

真剣に、御言葉を学んでいた、ということです。

 

当時の民の教育は、安息日に行われていました。

又一年に幾度か、ヤハウェを賛美するための祭りがあり、その時も、

大規模な教育活動がなされていました。

 

その日は、一日中御言葉について

学んでいた、ということです。

 

更に、個人的には、時々、イザヤを呼び、訓練を受けていたことでしょう。

では今日はどうでしょうか?

 

正しく解釈された正確な知識が、

どこから伝えられているのかを

まず、見極める必要があります。

教育者はヤハウェです。

 

分からない方々は、

まずヤハウェに祈り、

「真理の正確な知識へと導いて下さい」、と

プレイヤーを行って、見極めて頂けたらと思います。

そして、

是非、ヒゼキヤのように、日々、

学んだ正確な知識を、

正しい判断力、識別力、洞察力を働かせて、実践し、実践し、実践することにより、その経験を通して、

次のように言えるようになって頂けたらと思います。

「どれほど私は

あなたの みおしえ を

愛していることでしょう。

それがいつも

私の思いとなっています。」

 

今回は以上です。