【144000人の奥義】(3)「目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ」
☆本論に入ります前に、
*今回の記事は、ある方々にとっては、
耳の痛くなるような内容が含まれているかも知れませんが、
どうか、記事の内容に心を留めて下さり、
思いと心を調整して下されば、
大変ありがたく思います。
ヤハウェからの祝福が、全ての仮選別者の上に注がれますよう。
皆様にお仕えする しもべより
では、
今回も、ルカによる福音書12章の、
34節から、
「あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」
という部分から考察したいと思います。
今現在、皆様にとっての、
富(宝)とはなんでしょうか?
*何故なら、それをまず自覚しないなら、
「心」をヤハウェや隣人に向ける事は難しいかもしれません。
*正直に、自己吟味してみて下さい。
↓
「今の自分の一番の関心事は?
ヤハウェ?
自分の霊的な成長?
そして、隣人を助けたい、となっているだろうか?
それとも?」
パウロはこのように書いています。
テモテへの手紙一6章19節
「真の命を得るために、未来に備えて自分のために堅固な基礎を築くようにと」
と、
書かれてあります。
いずれ無くなる悪魔の世での楽しみは、一時的で はかないものです。
皆、同じ時間が与えられている中で、先程のパウロの言葉に書いてあったように、
「未来に備えて、自分のために、
堅固、つまり、確かな基礎を築く」ことに、
自分の心は向いているだろうか?
という事です。
「未来に備えて」確かな基礎を築く。
*ある意味、時間というものは、
考えようによっては、とても貴重なものです。
前回の記事でも書きましたが、
《今蒔いているもの》を、将来、
どのような仕方で刈り取るか?
という事をいつも銘記しておくと、よいかも知れません。
さて、
ルカによる福音書12章35節からを見ると、
「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」
と書かれてあります。
当時のイスラエル地方の僕たちは、長い衣をまくり上げて、帯の下にしっかりはさみ、
主人がいつ帰ってきてもいいように、起きている、
というのは、何も珍しい事ではなく、「当然の事」でした。
さて、この譬(たとえ)の中の僕たちは、主人が婚宴から帰ってくる時に、
「腰に帯を締め」
「ともし火をともして」
「主人の到着を待って」
「目を覚ましている」
*僕なら、主人が何時に帰って来たとしても、
まず、主人が家に到着するまで、
起きているのは「当然」でしょう。
では、なぜ、イエスは敢えて、
このような譬(たとえ)を用いて、
「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」
そして、
「主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。」
更に、
「目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ」
と述べたのでしょうか?
*ここで識別すべきなのは、
主人が何時に帰って来るのか、
全く予期出来ないという事です。
*更に、注目すべきなのは、
この譬(たとえ)でも、
暗に、《主人が遅れる》、という事を示唆している、という事です。
それで、この譬(たとえ)の趣旨です。
・「腰に帯を締め」
・「ともし火をともして」
・「主人の到着を待って」
・「目を覚ましている」
この4点のワードを分析する必要があります。
ではまず、
・「腰に帯を締め」です。
*この点に関しましては、
YouTubeチャンネル
From KSRG様の、
下記の動画を視聴して頂くと、意味をつかむ事が出来ます。
「神の武具シリーズ」《真理の帯》(前編)
↓
「神の武具シリーズ」《真理の帯》(益、注意点、奥義)
↓
更に、
・「ともし火をともしていなさい」
です。
*この「ともし火」は、
何を表しているのでしょうか?
主人がつまずく事なく、家の中に入れるようにする為でしょうか?
それは考えにくいでしょう。
何故なら、主人はもう、戸口まで来ていて、
戸をたたいている、というのが、
この譬(たとえ)の想定場面です。
聖句を見ると、
その時に、
「すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい」
と書かれてあります。
「すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい」と、
*つまり、「ともし火」は、
主人の為ではなく、
「僕たち」の為のものです。
そうです。
「僕たち」の為のもの。
*この点の解釈に関しましては、
後日、別のイエスの譬(たとえ)から詳しく説明したいと思いますが、
[今回言える事は、「ともし火」は、
主人に、「誰」が待っていたのか?
を分からせる為のもの、とだけ、述べさせて頂きます。]
*この譬(たとえ)の中では、
まず、僕が何人いるのか?
に言及していません。
*繰り返しますが、この部分の趣旨です。
《主人が戸口をたたいた時、
すぐに開けようと待っている僕が、
誰か?》
という事です。
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☆それと、もう一つ、ここからが、
今回の記事の最も重要な要点です。
僕たちが、主人の到着時に、用意をしているのは、
「当然」である、と言う事です。
つまり、144000人として仮選別されている者たちが、
主人の到着に『備えている』のは、
何も凄い事でもなく、
「当然」だと言う事です。
であるのに、
もし、今、144000人級として仮選別されている方々のうちの誰かが、
例えば、
『自分は144000人級として仮選別されているから、
ある意味《特別な存在》で、
勿論、他の仲間もそうで、
共に、
《ヤハウェから命じられた事》を行っている。
それも、悪魔の世で、自分の責任も果たしながら。
だから《凄い》』
と思っていたとしたら、
どうでしょうか?
繰り返しますが、
この終末の期間の末期に、ヤハウェから、
144000人級として仮選別されている者たち(自分も含め)は特別だ。
自分の責任も果たしながら、
《ヤハウェの為に》、
辛抱と忍耐を尽くして耐え忍んでいる。
何て144000人級(自分も含め)は、
凄いんだ。
理屈抜きで、
ヤハウェの指示は絶対だから、
そのことをよく理解している
144000人級(自分も含め)は、
やはり凄い。
もし、このように考えるとしたら、
皆様は何かお気づきでしょうか?
確かに、
144000人級として仮選別され、
この悪魔の世で、
ヤハウェからの責任を果たしている144000人級は、
誉れにあたいするかも知れません。
しかし、どのような動機で、
その責任を果たしているのでしょうか?
つまり、
今回の譬(たとえ)で言うなら、
どのような動機で、
「腰に帯を締め」
「ともし火をともし」
「主人の到着を待って」
「目を覚ましている」
のでしょうか?
イエスは別の譬(たとえ)で、次のように言われました。
ルカによる福音書 17章7~10節
「あなたがたのうちだれかに、
畑を耕すか 羊を飼うかする僕がいる場合、
その僕が畑から帰って来たとき、
『すぐ来て食事の席に着きなさい』
と言う者がいるだろうか。
むしろ、
『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』
というのではなかろうか。
命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。
あなたがたも同じことだ。
自分に命じられたことをみな果たしたら、
『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』
と言いなさい。」
と書かれてある通りです。
つまり、
☆144000人級として、
聖霊による証印を押して下さったのは、
あくまでも、
《ヤハウェの過分のご親切》で、
『こんな塵くずにも等しい僕に、なんと言う寛大さをお示し下さったのでしょうか』
と言う「認識」です。
そのように考えるなら、
ヤハウェからの全ての御旨に関しても、
『ヤハウェがそのように望んでおられるのであれば、それを果たすのは当然です』
となり、
『役にたたないこの僕が、当然行うべき事をしているだけですのに、
それを
《全て尊いものとして記憶》して下さり、
こんな寛大な報いまで用意して下さっているのですか?
何もお返し出来るものなどありませんのに』
となるわけです。
そうすると、
☆今以上に、
ヤハウェに対する感謝、愛、愛情、愛着心、忠実、忠誠心、忠節、
信仰、信心、信頼、敬虔さ、専心等の気持ちを、もっと強めたい、となり、
この「恵みによる招待」に、
『何もお返し出来るものなどありませんが、是非、あなたの御心を行わせて下さい』
と、考えが調整されてゆく事でしょう。
又、このような動機付けでなければ、
いつかは我慢の限界を感じ、
『永遠の賞』を獲得する道のりを、最後まで走り抜く事が、
難しく思えてくるかも知れません。
☆これが、今回の奥義です。
そうです。
確かに、144000人級は、
ヤハウェから仮選別して頂き、
将来、最終的に印を押され、
全ての事に完全勝利したならば、
その時こそは、御座そのものに入り、天と地における統治権を行使する事になるでしょう。
だからと言って、
144000人と、地を受け継ぐ者たちとの間に、
この悪魔の世で見られるような上下関係などは存在しませんし、
144000人級として仮選別されている者たちは、今はまだ仮選別の段階で、
最後までどうなるのかは誰にも分からないわけです。
☆144000級として、
ヤハウェから引き寄せられた者が凄いのではなく、
引き寄せて下さったヤハウェ、
その、想像を遥かに上回るヤハウェの愛、愛情、親切、憐れみ、
寛大さ、寛容さ、同情心、謙遜さ、
忍耐強さ、そして、赦しが、
余りにも際立っている、という事です。
実際、144000人級は、それに対して、ヤハウェに何もお返しなど出来ないわけです。
☆ですから繰り返しますが、
144000人級としてヤハウェから仮選別されている事を、
そして、ヤハウェからの責任を果たしている事を、
どのように考えるべきか、という事です。
大切なのは、どのような動機で、
その責任を果たしているか?
ではないでしょうか?
そうなると、
我々が、今培わなければならないのは、
ヤハウェへの感謝、愛、愛情、
愛着、忠実、忠誠心、忠節、信仰、信心、信頼、敬虔さ、専心の念、崇敬の念、そして敬虔な畏れです。
簡潔に言うなら、
ヤハウェに好かれたい、
ヤハウェに嫌われたくない、
この気持ちを、日ごとに増してゆかなければ、「上への召しという賞」を獲得する道のりを、最後まで走り抜く事が、難しく思えてくるかも知れません。
*この見方から決してぶれないように、と言う事です。
☆勿論、このような動機で、
これまでヤハウェに従い、その責任を果たしてこられた方々は、本当に、誉れにあたいするでしょう。
☆又、もし、この記事を読まれて、何か気づきがあった、と思われる方は、動機を調整されたらと思います。
そのように調整されてくると、
恐らく、次の内容は、理解しやすいかも知れません。
☆では、今回の最後の要点です。
*主人が帰って来た時に、
「目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ」
↓
この部分を考えましょう。
「目を覚まして」
と訳されているギリシャ語は、
新約聖書の中で何ヵ所か使われています。
では、その中の2つの例から考えてゆきましょう。
まず、
マタイによる福音書26章41節を見ると、このように書かれてあります。
「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。、、、」
これは、イエスが処刑される前夜、
更に、ぺテロも第一の手紙5章8節で、次のように述べています。
「身を慎んで目を覚ましていなさい。
あなたがたの敵である悪魔が、
ほえたける獅子のように、食い尽くそうと探し回っています。」
と書かれてあります。
ここで二つの聖句を挙げましたが、
「目を覚まして」いるのが、
どのような意味なのか、何となくお分かり頂けた事でしょう。
文字どおり起きている、という意味でないことは言うまでもありませんが、
何に対して、「目を覚まして」いるべきなのか?
という事です。
まず、ここで用いられているギリシャ語です。
*「目を覚まして」
↓
「警戒を怠らず、油断なく見張る」
という意味もあるそうです。
何に対してでしょうか?
イエスは、
「誘惑に陥らぬよう」
と述べています。
*ここで、「誘惑」というワードが出てきました。
「誘惑」というのは、悪魔が用いる最大兵器です。
更に、ぺテロも、
悪魔に隙を与えて「食い尽く」されないように、という警告を与えています。
ここで「食い尽くす」と訳されているギリシャ語は、
他の海外の訳を日本語に直訳すると、
「むさぼり食う」
「飲み下す」
等と訳されています。
*簡単に説明するなら、
「全く抵抗出来ない状態にする」という意味もあるそうですが、
悪魔に、そのような状態にされたらどうなるでしょうか?
そして、その「食い尽くす」手段が、
いわゆる「誘惑」だという事です。
*よく考えて下さい。
今の終末の期間は、イエスの時代よりも、「誘惑」の要素であふれかえっています。
悪魔サタン ルシファーは、
強力な霊者です。
決して侮るべきではないでしょう。
勿論、ヤハウェにしっかりと付き従っている限り、過度の恐怖心を抱く事はありませんが、
それは、あくまでも、
ヤハウェにしっかりと付き従っている、というのが条件です。
(ヤコブの手紙4章7、8節 参照)
悪魔の誘惑は「狡猾」かつ「巧妙」です。
例えば、
コロサイの信徒への手紙3章5節からを見ると、次のように書かれてあります。
「、、、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。、、」
と書かれてありますが、
更に、
ヨハネの黙示録21章8節には、
「、、、忌まわしい者、、みだらな行いをする者、、、」
と書かれてあります。
そして、同じ、
ヨハネの黙示録22章15節にも、
「犬のような者、、、みだらなことをする者、、、」と
書かれてあります。
☆この、
「みだらな」と訳されているギリシャ語は、
ポルネイアです。
ヤハウェの見地からすると、
ポルネイアに関しての嫌悪感は、
殺人と同列、もしくはそれ以上と考えても言い過ぎではありません。
これは聖書を読まれたら一目瞭然です。
*この語は、姦淫、淫行、同性愛、動物との性行為のみならず、
性の不道徳全般を包含しています。
当然、ポルノビデオ、ゲーム、書籍なども、
悪魔が媒体を通して提供してくる、いわば、《餌》です。
しかし、ある方はこう考えるかもしれません。
#今からお話するのは、あくまでも、例に過ぎませんので、ご了承下さい。
例えば、です。
*既婚者であるなら、
「別に、配偶者以外の異性と、性の不道徳を行っているわけではないので、ポルノを見るくらい、ヤハウェは大目に見て下さる」
と。
ではなぜ、そのようなものを、敢えて見たいのでしょうか?
そのようなものを見ている時の精神状態は、どのようなものでしょうか?
テモテへの手紙 二 3章を見ると、
「自分自身を愛し、、、神をあざけり、、恩を知らず、神を畏れなくなり、、節度がなく、、善を好まず、、軽率になり、、神より快楽を愛し、信心を装いながら、その実、信心の力を否定するようになります」
ルシファーの切り札に、完全に
はまっていると、言えるでしょう。
悪魔は喜んでも、ヤハウェはどう思われるでしょうか?
☆勿論、独身者でも、ポルネイアに関係する罪は、無関係ではありません。
では、別の例です。
これは、ヤハウェが忌まわしいと思っておられる、いわゆる殺害、残忍さ、残酷さ、暴行、凶悪、非道、無慈悲、等です。
例えば、
「実際に、人を殺害しているわけではないので、
ホラーやサイコ、猟奇ものや残忍な殺害シーン満載のビデオやゲームを行ったり、観たりしても、
ヤハウェは大目に見て下さるに違いない」と。
では何故、そのようなものを、敢えて、好むのでしょうか?
その時の精神状態はいかがなものでしょうか?
テモテへの手紙二3章を見ると、
「、、自分自身を愛し、、神をあざけり、、恩を知らず、神を畏れなくなり、また、情けを知らず、和解せず、、、節度がなく、残忍になり、善を好まず、、軽率になり、、神よりも快楽を愛し、信心を装いながら、その実、信心の力を否定するようになります。」
もし、このような精神状態だったとしたら、
「目を覚ましている」と言えるでしょうか?
*自分は大丈夫だ?
果たしてそうでしょうか?
聖書のどこにも、そのような保証の言葉は書かれていません。
むしろ、
コリントの信徒への手紙一10章12節には、
「だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい」
と書かれてある通りです。
*ですから、今回最後に考えた、
『目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ』
と言うのは、どんなものであれ、
ヤハウェが忌まわしい、と思っておられる悪魔の餌に引っ掛からない、
そして、自分を欺かないで、
聖なる者に相応しく歩む、
と言う事です。
今回の記事では幾つかの要点がありましたが、特に銘記して頂きたいのは、
🖊️🖊️🖊️🖊️🖊️🖊️🖊️✍️の、しるしからの
今回の144000人の奥義です。
よく祈りのうちに黙想される事を
おすすめ致します。
ヤハウェは、誰の為に長く忍耐して下さっているのでしょうか?
その忍耐強さに感謝し、
共に『上への賞を獲得する為に』
最後まで、走り抜く決意を固めて参りましょう。
*今回の記事の内容ですが、
今の時点で、これらの基準に達していないと、アウトと言う意味ではありませんので、誤解のないように、と思います。
今は皆、霊的な成長の途中段階ですので、これからも共に努力して行きましょう。
ただし、ヤハウェの最後の予定日までには、144000人に相応しい者として整えられますよう、
「、、、火の中をくぐってきた者のようにではあるが、救われるであろう。」
(コリント一3章15節)
このような形で救われる事のないよう願っています。
長い文章を最後まで読んで下さり
ありがとう御座いました。
もし、今回の記事から、少しでも霊的な益が得られたと思われましたら、是非、
ヤハウェに感謝して下さればと思います。
今回の内容は、とても長くなってしまいましたので、
次回の更新日は、少し間隔が空くかも知れませんが、ご了承下さい。