「5つの事とは?」《高次元とのコミュニケーション》【最新解釈版】(1)「高次元とのコミュニケーションの最大の目的とは?」

今回は、高次元とのコミュニケーションに注目し、最新の解釈を交えて、解説したいと思います。

 

 

まず、高次元とのコミュニケーションですが、これは、分かりやすく言うと、

ヤハウェとの意思疎通》のことです。

 

ですから、

ヤハウェとの関係を深めること》が、最大の目的であり、

 

勿論、祈りとして、

請願や祈願をすることもあるでしょうが、

繰り返しますが、

高次元とのコミュニケーションの最大の目的は、

ヤハウェとの関係を深めること》です。

 

当然、ヤハウェが忌まわしいと思っていることを避け、

ヤハウェが望ましいと思っておられることに、

普通以上の関心を抱くよう、

自分自身が、日々、霊的に整えられてゆく必要があるでしょう。

 

勿論、皆様には自由意思がありますので、

ヤハウェとの関係など深めたくはない、と思われるようでしたら、

以下の内容は全く無意味な内容となっているかも知れません。

 

それでも、内容だけでも読んでみようと思われる方々は是非、読んでみて下さい。

 

 

聖句は出来るだけ、YouTubeチャンネル

From KSRGさんの概要欄に記載してある聖句を用いて解説致します。

 

✍️

大切な点ですので、

もう一度繰り返しますが、

高次元とのコミュニケーションの

最大の目的は

ヤハウェとの個人的な関係を深めること》

更にいうなら、

いかにヤハウェから是認されるか。

どうすればヤハウェから祝福されるか。

それこそが、

《人間として存在していることの意義》だという結論に到達することでしょう。

 

詩編144編15節

(新共同訳)

「いかに幸いなことか、

このような民は。

いかに幸いなことか

主(ヤハウェ)を神といただく民は。」

 

(口語訳)

「このような祝福をもつ民は

さいわいです。

主(ヤハウェ)をおのが神とする民はさいわいです。」

 

(新改訳2017)

「幸いなことよ

このようになる民は。

幸いなことよ

主(ヤハウェ)を自らの神とする民は。」

 

詩編16編8、9、11節

(口語訳)

「わたしは常に主(ヤハウェ)を

わたしの前に置く。

主がわたしの右にいますゆえ、

わたしは動かされることはない。

このゆえに、わたしの心は楽しみ、

わたしの魂は喜ぶ。

わたしの身もまた安らかである。

あなたはいのちの道を

わたしに示される。

あなたの前には

満ちあふれる喜びがあり、

あなたの右には、

とこしえにもろもろの

楽しみがある。」

 

(新共同訳)

「わたしは絶えず主(ヤハウェ)に

相対しています。

主は右にいまし

わたしは揺らぐことがありません。

わたしの心は喜び、

魂は躍ります。

からだは安心して憩います。

命の道を教えてくださいます。

わたしは御顏を仰いで満ち足り、

喜び祝い

右の御手から永遠の喜びをいただきます。」

 

(新改訳2017)

「私はいつも

主(ヤハウェ)を前にしています。

主が私の右におられるので

私は揺るがされることがありません。

それゆえ、私の心は喜び

私の胸は喜びにあふれます。

私の身も安らかに住まいます。

あなたは私に

いのちの道を知らせてくださいます。

満ち足りた喜びが

あなたの御前にあり

楽しみが

あなたの右にとこしえにあります。」

 

と聖書に書かれてある通りです。

 

 

では、今回は、

ヨハネ福音書6章44節を考えてゆきましょう。

 

*ヨハネ福音書6章44節

 

(新改訳2017)

「《わたしを遣わされた父》が

《引き寄せて》くださらなければ、

《だれも》

わたしのもとに来ることは

《できません》。

《わたしは》

その人を終わりの日によみがえらせます。」

 

まずはこの聖句から考えましょう。

多くのキリスト教では、

エスが神であり、

又は三位一体神、

聖霊などが、神として崇められていますが、

例えば、イエスに近づきたくても、

エスを遣わされた方である

天の父ヤハウェに引き寄せて頂かなければ、イエスのもとに来ることは出来ないのです。

聖句にはっきり書かれてある通りです。

 

つまり、終末の期間に入ってから、ヤハウェに仮選別されていなければ、ということです。

 

この記事を読んで下さっている皆様の多くは、

ヤハウェに仮選別されていることを《自覚》しておられることでしょう。

そして、そのことをヤハウェ

《感謝》しているに違いありません。

 

それで、是非、次の自問を行ってみて下さい。

 

「*この終末の期間、ハルマゲドンの時までに、

ヤハウェはなぜ自分を仮選別して下さったのだろうか?

 

*ただ単に、最後まで、悪魔のものにならないよう、耐え忍ぶ為だけだろうか?

 

*それとも、ヤハウェは自分に

それ以上のことを期待しておられるのだろうか?

 

*もしかしたら、ヤハウェは、自分に出来る範囲で、

他の人にも、ヤハウェについて、

宣べ伝えることを 望んでおられるのだろうか?」

 

この悪魔の世が邪悪の極みに至るまで突き進んできたのは、

最初の人間、アダムが罪を犯し、

遺伝の法則により、人間が不完全になり、

更に、悪魔の誘導のもとに人間はこれまで、悪魔化してきたのです。

このままでは、

最終的には、全ての人間が、

悪魔の望む者へと変化してしまうことでしょう。

 

人間には自由意思が与えられていますから、悪魔のようになりたければ、この世が推奨する生き方をすればよいだけです。

 

ただ、悪魔化だけは避けたい、と思われるなら、ヤハウェの側に付き従う必要があります。

 

これは、人間が生み出した問題です。

問題解決には人間が先頭に立つ必要があるでしょう。

 

この信仰の道は決して楽な道ではありません。

自分自身の不完全さに勝利しなければなりません。

当然、悪魔に対しても。

 

ヤハウェはなぜ、自分を引き寄せて下さったのだろうか?」

この質問に対する答えは、

ヤハウェが望んでおられる

《完全な思考》

(*ここでいう「完全な思考」というのは、又後日、解説しますが、

最初の人間アダムが有していた完全さではなく、

不完全な人間でも到達出来る完全さです。)

になった時に、はじめて理解し、

納得出来ることでしょう。

 

しかし、悪魔はその答えに到達はさせたくはないはずです。

 

悪魔がエバを欺いた時、何と言ったのか思い出して下さい。

創世記3章2~5節

(新改訳2017)

女は蛇に言った。

「私たちは園の木の実を食べても

よいのです。

しかし、園の中央にある木の実に

ついては、

『あなたがたは、それを食べては

《ならない》。

それに触れても《いけない》。

《あなたがたが》

《死ぬといけないからだ》。』

と神は仰せられました。」

 

すると、蛇は女に言った。

「あなたがたは

《決して死にません》。

それを食べるそのとき、

目が開かれて、

《あなたがたが》

*《神のようになって》

善悪を知る者となることを、

神は《知っているのです》。」

 

と述べたのです。

 

新改訳2017年版の脚注の

*「神のようになって」

という部分の別訳

「御使いたち」

 

「神的な存在」

 

と書かれてあります。

 

では、エバは悪魔の言ったように、

 

・死ななかったのでしょうか?

 

・神のようになって、

或いは、御使いたち、

・神的な存在になったのでしょうか?

 

答えはNOです。

 

 

逆に、もし アダムとエバ、そして その子孫たちが、

悪魔ではなく、

ヤハウェの言われることに従っていたならば、

 

三次元物質宇宙へと増え広がってゆき、いずれ、

ある者たちに関しては、望むなら、

「御使いたち」

「神的な存在」

になるよう、招待されたことでしょう。

 

 

では、今、悪魔は、

特に144000人級が、どのような考えになることを望んでいるでしょうか?

少し黙想してみて下さい。

「・高次元なんて、そんなつまらないところに行ってどうするんだ。

今を存分に楽しめばいいだけではないか?

 

・なぜ自分(悪魔)がヤハウェから離れたのか、退屈だったからに決まっている。

 

・元ケルビムの自分(悪魔)が言うんだから間違いないだろう。

そう思わないか?

 

ヤハウェが無限に与えてくれる希望や報いだって?

笑わせるなよ、そんなつまらないこと忘れた方がいいと思う。

そう思わないか?

 

・これだけは言っておく。

もし、144000人として高次元に上げられたとしても、

 直ぐにでも、自分を放棄した方がいい。

そうすれば 無意識、無存在になるだけで、

楽になれる。存在していたとしても、疲れるだけだ。

そう思わないか?」

 

悪魔は一人でも多くの者を道ずれにしようと そのような考え方に、誘導してくるかも知れませんが、

 

本当にそうでしょうか。

 

これだけは忘れないで頂きたいのですが、

ケルビムやセラフィムの中で、

《自分から》ヤハウェから離れたのは、

《ルシファーだけです》。

 

では、なぜ 他の者たちはヤハウェから離れないのでしょうか?

答えはシンプルです。

《離れたくないからです》。

 

勿論、御使いたちの中には、

ヤハウェから離れ、堕天使となった者たちもいますが、

その者たちはその結果に本当に満足しているのでしょうか?

 

 

ヨハネの黙示録20章を見ると、

悪魔サタン ルシファー以外の堕天使は登場してきません。

 

御使いたちも自由意思が与えられていました。

ヤハウェに仕えたくなければ、

その旨を伝えれば、

直ぐにでも存在を無くしてもらうことは出来ました。

 

*ただし、離れる、堕天使となる、という選択をした場合、

《ある条件》がありました。

・まず、自分の体を物質化出来るのは一時的であること。

 

・又、後悔して、自分の存在を消して欲しくても、自分からは存在を消すことができず、

裁きの日までは、

何かしらの仕方で存在し続けなければならない、ということです。

 

つまり、ハルマゲドンまでは何かしらの仕方で存在し続けなけれはならないのです。

 

それで 現在では、

自分の体を物質化することが出来ないので 、様々な怪奇現象を生じさせたり、

死者を装ったり、

ある人や動物に入り込んで、

倒錯行為に耽ったり、

ある者たちは仕方なしに、

いやいや悪魔に協力している者もいることでしょう。

 

本当は今直ぐにでも、存在を無くして欲しいのに、

それが許されていないわけですから、

ある意味、生地獄と言ってもいいかも知れません。

 

口語訳聖書の、

ぺテロの第二の手紙2章4節を見ると、

(口語訳)

「神は、罪を犯した御使いたちを許しておかないで、

彼らを下界におとしいれ、

さばきの時まで暗やみの穴に

閉じ込めておかれた。」

と訳されています。

 

この部分に関しては、

口語訳が、一番、原語に近い訳となっています。

 

彼らは、

「さばきの時まで

暗やみの穴に閉じ込めておかれた。」

 

とありますが、彼らにとっての

「さばきの時」とは、

ハルマゲドンです。

 

それまでの間、

「暗やみの穴に

閉じ込めておかれた」

解釈的には、

「これはある《特定の場所》のことを述べているのではなく、

つまり、堕天使たちをどこか一ヶ所に閉じ込めておかれた、という意味ではなく、

ここで使われているギリシャ語で解釈すると、

存在を消して欲しくてもそうしてもらえない、

《究極のやるせない状態》をさしています。

それ故、訳されている文章を象徴的にとらえると理解しやすいと思います。

ある意味、拘束されている、

閉じ込められていると言えるかも知れません。

 

例えば、

(口語訳)

・『暗やみの穴に

閉じ込めておかれた』

 

(新改訳2017)

・『暗やみの縄目につないで、

さばきの日まで

閉じ込められ』

 

(新共同訳)

・『暗やみという縄で縛って

、、裁きのために閉じ込め』

 

と訳されています。

《場所》ではなく、

《究極のやるせない状態》

です。

 

 

(海外のある訳を日本語直訳すると、分かりやすいものもあります。

一部紹介します。)

・『形執行までの間

拘束し』

 

・『裁きの時まで

やるせない状態が続き』

 

などと訳されている聖書もあります。

 

つまり、堕天使たちは誰一人、

ルシファーのような思考の者はいないのです。

 

ユダの手紙6節の中程に、

(新改訳2017)

「、、、自分のいるべき所を捨てた御使いたち」

 

興味深いことに、この部分の、

新共同訳の訳し方です。

(新共同訳)

「、、自分の領分を守らないで、

その住まいを

《見捨ててしまった天使たち》」

《見捨ててしまった、、》

「この訳からは、やるせない悲しい哀愁を感じないでしょうか。

心が傷つき、残念さ、後悔、

やるせない思い、何ということをしてしまったのか。

しかし、もう遅い。

存在を早く消して欲しい。

なにもかもが嫌になった。

自暴自棄。

と言ったところでしょうか。」

 

少し、話が脱線しましたが、

堕天使たちの誰一人、後悔しなかった者はいません。

悪魔は、その事実を人間たちには気づかれないよう全世界を惑わしています。

また、ヤハウェイエス・キリストの愛を人間に気づかせないようにしています。

更にいうなら、とにかく、

悪魔は、皆様を、身体的にも、

精神的にも、感情的にも、霊的にも、疲れさせ、諦めさせようと躍起になっているのです。

 

それで今回は、悪魔のそのような手口にかかって 負けてしまわない為にも、

 

次のプレイヤーを含めることをおすすめ致します。

ヤハウェ、どうか私が、

身体的にも、精神的にも、

感情的にも、霊的にも、

疲れてしまわないよう、

何事においても、

バランスを崩してしまわないよう、いつも気づかせて下さい。

その為に、普通を越えた力を与えて下さい。」

 

と祈ってみて下さい。

 

 

そして、次の真実をいつも忘れないようにして頂けたらと思います。

ローマ人への手紙8章37節には、

(新改訳2017)

「しかし、

《これらすべてにおいても》、

私たちを愛してくださった方

に《よって》、

私たちは

《圧倒的な勝利者です》。」

悪魔の世の中の絶望感から漂ってくる倦怠感からすると、

どうしても、希望を持って喜びを保つことは難しいと感じることもあるかも知れませんが、

そのような世の中の雰囲気に流されないよう、

上記の聖句を常に思いに留めましょう。

 

 

ヤハウェが、皆様を引き寄せて下さったことには、必ず意味があります。

 

そのようにして、イエスのもとに来ることが出来た事実を思いに留めましょう。

 

ヤハウェにとって、皆様はとても貴重な存在です。

 

では、ヘブル人への手紙2章1節に注目しましょう。

 

ヘブル人への手紙2章1節

(新改訳2017)

「こういうわけで、私たちは

聞いたことを、

ますますしっかりと心に留め、

押し流されないようにしなければなりません。」

 

と書かれてある通りです。

 

この世は益々、滅びへと、激流の如く突き進んでいます。

その悪魔からの激流に逆らって、

救いを達成しなければならないわけですから、ヘブル人への手紙2章1節にあるように、

聞いたこと

聖書の正確な知識

ますますしっかりと心に留め、

(新共同訳

「いっそう注意をはらわねば」)

ならないでしょう。

とにかく、実践です。

悪魔の策略は、

《皆様を諦めさせようとすること》なのです。

 

 

 

よく考えてみて下さい。

何度も繰り返しますが、

ヤハウェが、皆様を引き寄せて下さったことは、

全て意味があってのことで、

それ故、

《この、貴重とも言える最後の機会》を無駄にしないよう、共に努力してゆきましょう。

 

これが今回の

「高次元とのコミュニケーション」でした。

 

今は利己的になっている時ではありません。

 

yahweh-ksrg's blogさんの方でも記事として更新されていましたが、

(*当ブログでは新共同訳を引用)

今、多くの人々が、

マタイによる福音書6章26節

(新共同訳)

「だから、《言っておく》。

《自分の命のことで》

何を食べようか何を飲もうか、

また

《自分の体のことで》

何を着ようかと思い悩むな。

《命》は食べ物よりも大切であり、

《体》は衣服よりも大切ではないか。」

 

マタイによる福音書16章25、26節

(新共同訳)

「《自分の命を救いたい》と

《思う者》は、

それを失うが、

《わたしのために》命を失う者は、

それを得る。

人は、たとえ全世界を手に入れても、

《自分の命を失ったら》、

何の得があろうか。

《自分の命を買い戻すのに》、

《どんな代価を支払えようか》。」

 

まさに、イエスが言われた主旨です。

ここでいう「命」を守り抜く為、

ヤハウェから

《仮選別されていることを》、

《最後まで守り抜かなければ》

ならない、ということでしょう。

それが上記の聖句でいう「命」なのです。

自分のやり方で、どれだけ「命」を存続させようとしたところで、

現実、どれだけ「命」を存続ささることができるでしょうか。

 

 

 

5つの事においても、やれるだけのことを行っているなら、

後は、

ヤハウェとの個人的な関係を深める為に、今こそ、利他的になるべき時と言えるでしょう。

 

一度だけの人生で、

多くの人々のうち、何の為に自分は存在しているのだろうか?

と考えている方々がまず どれだけいらっしゃるでしょうか。

 

そして、ある方々は富を得る為に。

 

ある方々は老後の安心を手に入れる為に。

 

ある方々は、自分の得意な分野で成功する為に....。

 

これは、144000人級のある方が言っておられたことですが、

ヤハウェと巡り会う前に、

今の世の中、物騒なので、護身術を極めよう、

そうすれば、自分や家族、又、大切な方を護れる、と。

そして、究極の護身術、危機管理術を編み出したそうなのですが、

結論は、それだけで終るなら、

まさに、伝道者の書の筆記者が書いているように、

「空しい、とにかく 空しい」そうです。

 

伝道者の書3章11、24節

(新改訳2017)

「しかし、私は自分が手がけた

あらゆる事業と、

そのために骨折った労苦を振り返った。

見よ。

すべては空しく、

風を追うようなものだ。

日の下には何一つ益になるものはない。

人には、食べたり飲んだりして、

自分の労苦に満足を見出すことよりほかに、何も良いことがない。

そのようにすることもまた、

神の御手によることであると分かった。

実に、神から離れて、

だれが食べ、

だれが楽しむことができるだろうか。」

 

と書かれてあります。

 

この記事を読んで下さっている多くの方々は、この心境が普通に分かると思います。

結論は、

ヤハウェとの個人的な関係を深め、

ヤハウェから是認された者、

祝福される者へと成長することでしょう。

そうでなければ

すべては「空しい」で

終了してしまうことでしょう。

 

 

次回も、

「5つの事とは?」

《高次元とのコミュニケーション》

【最新解釈版】(2)

を更新予定です。

 

 

yahweh-ksrg's blogさんの方からは、定期的に、聖書の最新の解釈記事が更新されています。

https://yahweh-ksrg.hatenablog.jp/about