【疑問に思われたことはないですか? 聖書からの答え】(1)《 聖書は神の啓示された名前を隠そうとしたり置き換えようとしているか?》

宣教に使うことの出来る 疑問に対する答え 第一回目です。

 

 

今回は最も基本的な疑問の一つに

フォーカスします。

 

本来、聖書は、古代ヘブル語と、

古代ギリシャ語(コイネー)で書かれました。

そして、現存している聖書の写本は、断片も含めるなら、

約数万を数えるほどです。

(*公式では

旧約聖書の写本が、約6000以上

新約聖書の写本が、約16000以上

と言われていますが、本当はもっと多く現存しています。)

 

ですが、残念なことに、

今日、多くの翻訳聖書には、

神の名前が記されていません。

 

それで、

主題にも記しましたが、

本来、聖書は、

神の名前を隠そうとしたり、

なにかしらの称号などに置き換えようとしたり しているのでしょうか?

(*「主」「三位一体」等)

又は、全能の神でないものに置き換えたりすること

(*「イエス樣」「聖霊樣」等)

についてはどうなのでしょうか?

 ↓

【聖書からの答え】

を見ていきましょう。

 

 

イザヤ書12章4、5節

(新改訳2017)

「その日、

あなたがたは言う。

『主に感謝せよ。

その《御名》を《呼び求めよ》。

そのみわざを、

もろもろの民の中に知らせよ。

《御名》が

《あがめられていること》を

《語り告げよ》。

主をほめ歌え。

主はすばらしいことをされた。

これを《全地に知らせよ》。』」

 

 

※ここに、「....御名を呼び求めよ、

御名があがめられていることを...」

とはっきりと書かれてあります。

これでも頑なな人たちは、

主の御名を呼び求めないでしょう。

主の御名はヤハウェです。

 

 

②マタイの福音書6章9節

(新改訳2017)

「ですから、あなたがたは

こう祈りなさい。

『天にいます《私たちの父よ》。

《御名》が聖なるものとされますように。』」

 

 

※これはイエスが教えられた模範的な祈りの最初に、天の父に対して、

『 御名が聖なるものとされますように。』

と言われたのです。

名前を知らなければどうでしょうか。

御名を聖なるものと出来るでしょうか、

また、聖なるものとしていることになるでしょうか?

 

 

ヨハネ福音書17章26節

(新改訳2017)

「わたしは彼らに

あなたの《御名を知らせました》。

また、

《これからも知らせます》。、、」

 

 

イエス・キリストはご自分の弟子たちに

全能の神の御名を知らせました。

最後まで。

では、イエスの追随者である我々が神の御名を知らせないで、

真の崇拝を実践していると言えるでしょうか。

 

 

④ローマ人への手紙10章13節

(新改訳2017)

「『《主の御名》を呼び求める者はみな救われる』のです。」

 

 

パウロは はっきりと

《主の御名を呼び求める者》が

救われる、と

ヨエル書を引用して述べたのです。

ヨエル書2章32節

(新改訳2017)

「しかし、主の御名を呼び求める者は みな救われる。、、、」

 

ここで述べている主とは、

ヤハウェです。

現存しているヘブル語の写本には、

ヤハウェの御名が記されています。

 

 

詩編83編18節

(新改訳2017)

  ↓

「こうして彼らが

《知りますように》。

その《名が》

主である

あなただけが

全地の上におられる

いと高き方であることを。」

 

 

※ これは 元々 ヘブル語の写本に、

ヤハウェの御名が記されていたという証です。

 

でも

『その名が』

『《主》であるあなただけが』

となっているわけです。

お分かり頂けるでしょうか。

主は称号であり、固有の名ではありません。

この部分を「主」と訳すと、

違和感しか残りません。

主の御名はヤハウェです。

 

 

箴言18章10節

(新改訳2017)

「主の《名は》

堅固なやぐら。

正しい人はその中に駆け込み、

保護される。」

 

 

※この聖句によると、

主の御名を知らないなら、

正しい人とは言えないということになります。

それでも頑なな人たちは、

ヤハウェの御名を口にしないでしょう。

 

 

⑦マタイの福音書23章39節

(新改訳2017)

「わたしはおまえたちに言う。

今から後、

『祝福あれ、《主の御名》によって

来られる方に』と

おまえたちが

言う時が来るまで、

決しておまえたちが

わたしを見ることはない。」

 

 

※イエスは、詩編118編26節を引用して、このように言われました。

詩編118編26節

(新改訳2017)

「祝福あれ

主の御名によって来られる方に。、、、」

 

ここで述べられている「主の御名」

の主とはヤハウェです。

現存するヘブル語の写本には

ヤハウェの御名が記されています。

それでも、ヤハウェの御名を口にしないのはなぜでしょうか?

あまりにも不可思議としか言えません。

 

 

 

次回のこのシリーズも楽しみに。

 

次の記事は、

「5つの事とは?」

《高次元とのコミュニケーション》

(2)【最新解釈版】

「赦すことをヤハウェが望んでおられるのはなぜですか?」

を更新予定です。

 

明日、7月9日は、

yahweh-ksrg's blogさんの方から 

「神の言葉[聖書]はとこしえに残る」No.41を更新予定です。

お楽しみに。

 

 

yahweh-ksrg's blogさんのブログからは、聖書の最新の解釈記事が定期的に更新されています。

https://yahweh-ksrg.hatenablog.jp/about

 

 

 

 

 

 

 

「5つの事とは?」《高次元とのコミュニケーション》【最新解釈版】(1)「高次元とのコミュニケーションの最大の目的とは?」

今回は、高次元とのコミュニケーションに注目し、最新の解釈を交えて、解説したいと思います。

 

 

まず、高次元とのコミュニケーションですが、これは、分かりやすく言うと、

ヤハウェとの意思疎通》のことです。

 

ですから、

ヤハウェとの関係を深めること》が、最大の目的であり、

 

勿論、祈りとして、

請願や祈願をすることもあるでしょうが、

繰り返しますが、

高次元とのコミュニケーションの最大の目的は、

ヤハウェとの関係を深めること》です。

 

当然、ヤハウェが忌まわしいと思っていることを避け、

ヤハウェが望ましいと思っておられることに、

普通以上の関心を抱くよう、

自分自身が、日々、霊的に整えられてゆく必要があるでしょう。

 

勿論、皆様には自由意思がありますので、

ヤハウェとの関係など深めたくはない、と思われるようでしたら、

以下の内容は全く無意味な内容となっているかも知れません。

 

それでも、内容だけでも読んでみようと思われる方々は是非、読んでみて下さい。

 

 

聖句は出来るだけ、YouTubeチャンネル

From KSRGさんの概要欄に記載してある聖句を用いて解説致します。

 

✍️

大切な点ですので、

もう一度繰り返しますが、

高次元とのコミュニケーションの

最大の目的は

ヤハウェとの個人的な関係を深めること》

更にいうなら、

いかにヤハウェから是認されるか。

どうすればヤハウェから祝福されるか。

それこそが、

《人間として存在していることの意義》だという結論に到達することでしょう。

 

詩編144編15節

(新共同訳)

「いかに幸いなことか、

このような民は。

いかに幸いなことか

主(ヤハウェ)を神といただく民は。」

 

(口語訳)

「このような祝福をもつ民は

さいわいです。

主(ヤハウェ)をおのが神とする民はさいわいです。」

 

(新改訳2017)

「幸いなことよ

このようになる民は。

幸いなことよ

主(ヤハウェ)を自らの神とする民は。」

 

詩編16編8、9、11節

(口語訳)

「わたしは常に主(ヤハウェ)を

わたしの前に置く。

主がわたしの右にいますゆえ、

わたしは動かされることはない。

このゆえに、わたしの心は楽しみ、

わたしの魂は喜ぶ。

わたしの身もまた安らかである。

あなたはいのちの道を

わたしに示される。

あなたの前には

満ちあふれる喜びがあり、

あなたの右には、

とこしえにもろもろの

楽しみがある。」

 

(新共同訳)

「わたしは絶えず主(ヤハウェ)に

相対しています。

主は右にいまし

わたしは揺らぐことがありません。

わたしの心は喜び、

魂は躍ります。

からだは安心して憩います。

命の道を教えてくださいます。

わたしは御顏を仰いで満ち足り、

喜び祝い

右の御手から永遠の喜びをいただきます。」

 

(新改訳2017)

「私はいつも

主(ヤハウェ)を前にしています。

主が私の右におられるので

私は揺るがされることがありません。

それゆえ、私の心は喜び

私の胸は喜びにあふれます。

私の身も安らかに住まいます。

あなたは私に

いのちの道を知らせてくださいます。

満ち足りた喜びが

あなたの御前にあり

楽しみが

あなたの右にとこしえにあります。」

 

と聖書に書かれてある通りです。

 

 

では、今回は、

ヨハネ福音書6章44節を考えてゆきましょう。

 

*ヨハネ福音書6章44節

 

(新改訳2017)

「《わたしを遣わされた父》が

《引き寄せて》くださらなければ、

《だれも》

わたしのもとに来ることは

《できません》。

《わたしは》

その人を終わりの日によみがえらせます。」

 

まずはこの聖句から考えましょう。

多くのキリスト教では、

エスが神であり、

又は三位一体神、

聖霊などが、神として崇められていますが、

例えば、イエスに近づきたくても、

エスを遣わされた方である

天の父ヤハウェに引き寄せて頂かなければ、イエスのもとに来ることは出来ないのです。

聖句にはっきり書かれてある通りです。

 

つまり、終末の期間に入ってから、ヤハウェに仮選別されていなければ、ということです。

 

この記事を読んで下さっている皆様の多くは、

ヤハウェに仮選別されていることを《自覚》しておられることでしょう。

そして、そのことをヤハウェ

《感謝》しているに違いありません。

 

それで、是非、次の自問を行ってみて下さい。

 

「*この終末の期間、ハルマゲドンの時までに、

ヤハウェはなぜ自分を仮選別して下さったのだろうか?

 

*ただ単に、最後まで、悪魔のものにならないよう、耐え忍ぶ為だけだろうか?

 

*それとも、ヤハウェは自分に

それ以上のことを期待しておられるのだろうか?

 

*もしかしたら、ヤハウェは、自分に出来る範囲で、

他の人にも、ヤハウェについて、

宣べ伝えることを 望んでおられるのだろうか?」

 

この悪魔の世が邪悪の極みに至るまで突き進んできたのは、

最初の人間、アダムが罪を犯し、

遺伝の法則により、人間が不完全になり、

更に、悪魔の誘導のもとに人間はこれまで、悪魔化してきたのです。

このままでは、

最終的には、全ての人間が、

悪魔の望む者へと変化してしまうことでしょう。

 

人間には自由意思が与えられていますから、悪魔のようになりたければ、この世が推奨する生き方をすればよいだけです。

 

ただ、悪魔化だけは避けたい、と思われるなら、ヤハウェの側に付き従う必要があります。

 

これは、人間が生み出した問題です。

問題解決には人間が先頭に立つ必要があるでしょう。

 

この信仰の道は決して楽な道ではありません。

自分自身の不完全さに勝利しなければなりません。

当然、悪魔に対しても。

 

ヤハウェはなぜ、自分を引き寄せて下さったのだろうか?」

この質問に対する答えは、

ヤハウェが望んでおられる

《完全な思考》

(*ここでいう「完全な思考」というのは、又後日、解説しますが、

最初の人間アダムが有していた完全さではなく、

不完全な人間でも到達出来る完全さです。)

になった時に、はじめて理解し、

納得出来ることでしょう。

 

しかし、悪魔はその答えに到達はさせたくはないはずです。

 

悪魔がエバを欺いた時、何と言ったのか思い出して下さい。

創世記3章2~5節

(新改訳2017)

女は蛇に言った。

「私たちは園の木の実を食べても

よいのです。

しかし、園の中央にある木の実に

ついては、

『あなたがたは、それを食べては

《ならない》。

それに触れても《いけない》。

《あなたがたが》

《死ぬといけないからだ》。』

と神は仰せられました。」

 

すると、蛇は女に言った。

「あなたがたは

《決して死にません》。

それを食べるそのとき、

目が開かれて、

《あなたがたが》

*《神のようになって》

善悪を知る者となることを、

神は《知っているのです》。」

 

と述べたのです。

 

新改訳2017年版の脚注の

*「神のようになって」

という部分の別訳

「御使いたち」

 

「神的な存在」

 

と書かれてあります。

 

では、エバは悪魔の言ったように、

 

・死ななかったのでしょうか?

 

・神のようになって、

或いは、御使いたち、

・神的な存在になったのでしょうか?

 

答えはNOです。

 

 

逆に、もし アダムとエバ、そして その子孫たちが、

悪魔ではなく、

ヤハウェの言われることに従っていたならば、

 

三次元物質宇宙へと増え広がってゆき、いずれ、

ある者たちに関しては、望むなら、

「御使いたち」

「神的な存在」

になるよう、招待されたことでしょう。

 

 

では、今、悪魔は、

特に144000人級が、どのような考えになることを望んでいるでしょうか?

少し黙想してみて下さい。

「・高次元なんて、そんなつまらないところに行ってどうするんだ。

今を存分に楽しめばいいだけではないか?

 

・なぜ自分(悪魔)がヤハウェから離れたのか、退屈だったからに決まっている。

 

・元ケルビムの自分(悪魔)が言うんだから間違いないだろう。

そう思わないか?

 

ヤハウェが無限に与えてくれる希望や報いだって?

笑わせるなよ、そんなつまらないこと忘れた方がいいと思う。

そう思わないか?

 

・これだけは言っておく。

もし、144000人として高次元に上げられたとしても、

 直ぐにでも、自分を放棄した方がいい。

そうすれば 無意識、無存在になるだけで、

楽になれる。存在していたとしても、疲れるだけだ。

そう思わないか?」

 

悪魔は一人でも多くの者を道ずれにしようと そのような考え方に、誘導してくるかも知れませんが、

 

本当にそうでしょうか。

 

これだけは忘れないで頂きたいのですが、

ケルビムやセラフィムの中で、

《自分から》ヤハウェから離れたのは、

《ルシファーだけです》。

 

では、なぜ 他の者たちはヤハウェから離れないのでしょうか?

答えはシンプルです。

《離れたくないからです》。

 

勿論、御使いたちの中には、

ヤハウェから離れ、堕天使となった者たちもいますが、

その者たちはその結果に本当に満足しているのでしょうか?

 

 

ヨハネの黙示録20章を見ると、

悪魔サタン ルシファー以外の堕天使は登場してきません。

 

御使いたちも自由意思が与えられていました。

ヤハウェに仕えたくなければ、

その旨を伝えれば、

直ぐにでも存在を無くしてもらうことは出来ました。

 

*ただし、離れる、堕天使となる、という選択をした場合、

《ある条件》がありました。

・まず、自分の体を物質化出来るのは一時的であること。

 

・又、後悔して、自分の存在を消して欲しくても、自分からは存在を消すことができず、

裁きの日までは、

何かしらの仕方で存在し続けなければならない、ということです。

 

つまり、ハルマゲドンまでは何かしらの仕方で存在し続けなけれはならないのです。

 

それで 現在では、

自分の体を物質化することが出来ないので 、様々な怪奇現象を生じさせたり、

死者を装ったり、

ある人や動物に入り込んで、

倒錯行為に耽ったり、

ある者たちは仕方なしに、

いやいや悪魔に協力している者もいることでしょう。

 

本当は今直ぐにでも、存在を無くして欲しいのに、

それが許されていないわけですから、

ある意味、生地獄と言ってもいいかも知れません。

 

口語訳聖書の、

ぺテロの第二の手紙2章4節を見ると、

(口語訳)

「神は、罪を犯した御使いたちを許しておかないで、

彼らを下界におとしいれ、

さばきの時まで暗やみの穴に

閉じ込めておかれた。」

と訳されています。

 

この部分に関しては、

口語訳が、一番、原語に近い訳となっています。

 

彼らは、

「さばきの時まで

暗やみの穴に閉じ込めておかれた。」

 

とありますが、彼らにとっての

「さばきの時」とは、

ハルマゲドンです。

 

それまでの間、

「暗やみの穴に

閉じ込めておかれた」

解釈的には、

「これはある《特定の場所》のことを述べているのではなく、

つまり、堕天使たちをどこか一ヶ所に閉じ込めておかれた、という意味ではなく、

ここで使われているギリシャ語で解釈すると、

存在を消して欲しくてもそうしてもらえない、

《究極のやるせない状態》をさしています。

それ故、訳されている文章を象徴的にとらえると理解しやすいと思います。

ある意味、拘束されている、

閉じ込められていると言えるかも知れません。

 

例えば、

(口語訳)

・『暗やみの穴に

閉じ込めておかれた』

 

(新改訳2017)

・『暗やみの縄目につないで、

さばきの日まで

閉じ込められ』

 

(新共同訳)

・『暗やみという縄で縛って

、、裁きのために閉じ込め』

 

と訳されています。

《場所》ではなく、

《究極のやるせない状態》

です。

 

 

(海外のある訳を日本語直訳すると、分かりやすいものもあります。

一部紹介します。)

・『形執行までの間

拘束し』

 

・『裁きの時まで

やるせない状態が続き』

 

などと訳されている聖書もあります。

 

つまり、堕天使たちは誰一人、

ルシファーのような思考の者はいないのです。

 

ユダの手紙6節の中程に、

(新改訳2017)

「、、、自分のいるべき所を捨てた御使いたち」

 

興味深いことに、この部分の、

新共同訳の訳し方です。

(新共同訳)

「、、自分の領分を守らないで、

その住まいを

《見捨ててしまった天使たち》」

《見捨ててしまった、、》

「この訳からは、やるせない悲しい哀愁を感じないでしょうか。

心が傷つき、残念さ、後悔、

やるせない思い、何ということをしてしまったのか。

しかし、もう遅い。

存在を早く消して欲しい。

なにもかもが嫌になった。

自暴自棄。

と言ったところでしょうか。」

 

少し、話が脱線しましたが、

堕天使たちの誰一人、後悔しなかった者はいません。

悪魔は、その事実を人間たちには気づかれないよう全世界を惑わしています。

また、ヤハウェイエス・キリストの愛を人間に気づかせないようにしています。

更にいうなら、とにかく、

悪魔は、皆様を、身体的にも、

精神的にも、感情的にも、霊的にも、疲れさせ、諦めさせようと躍起になっているのです。

 

それで今回は、悪魔のそのような手口にかかって 負けてしまわない為にも、

 

次のプレイヤーを含めることをおすすめ致します。

ヤハウェ、どうか私が、

身体的にも、精神的にも、

感情的にも、霊的にも、

疲れてしまわないよう、

何事においても、

バランスを崩してしまわないよう、いつも気づかせて下さい。

その為に、普通を越えた力を与えて下さい。」

 

と祈ってみて下さい。

 

 

そして、次の真実をいつも忘れないようにして頂けたらと思います。

ローマ人への手紙8章37節には、

(新改訳2017)

「しかし、

《これらすべてにおいても》、

私たちを愛してくださった方

に《よって》、

私たちは

《圧倒的な勝利者です》。」

悪魔の世の中の絶望感から漂ってくる倦怠感からすると、

どうしても、希望を持って喜びを保つことは難しいと感じることもあるかも知れませんが、

そのような世の中の雰囲気に流されないよう、

上記の聖句を常に思いに留めましょう。

 

 

ヤハウェが、皆様を引き寄せて下さったことには、必ず意味があります。

 

そのようにして、イエスのもとに来ることが出来た事実を思いに留めましょう。

 

ヤハウェにとって、皆様はとても貴重な存在です。

 

では、ヘブル人への手紙2章1節に注目しましょう。

 

ヘブル人への手紙2章1節

(新改訳2017)

「こういうわけで、私たちは

聞いたことを、

ますますしっかりと心に留め、

押し流されないようにしなければなりません。」

 

と書かれてある通りです。

 

この世は益々、滅びへと、激流の如く突き進んでいます。

その悪魔からの激流に逆らって、

救いを達成しなければならないわけですから、ヘブル人への手紙2章1節にあるように、

聞いたこと

聖書の正確な知識

ますますしっかりと心に留め、

(新共同訳

「いっそう注意をはらわねば」)

ならないでしょう。

とにかく、実践です。

悪魔の策略は、

《皆様を諦めさせようとすること》なのです。

 

 

 

よく考えてみて下さい。

何度も繰り返しますが、

ヤハウェが、皆様を引き寄せて下さったことは、

全て意味があってのことで、

それ故、

《この、貴重とも言える最後の機会》を無駄にしないよう、共に努力してゆきましょう。

 

これが今回の

「高次元とのコミュニケーション」でした。

 

今は利己的になっている時ではありません。

 

yahweh-ksrg's blogさんの方でも記事として更新されていましたが、

(*当ブログでは新共同訳を引用)

今、多くの人々が、

マタイによる福音書6章26節

(新共同訳)

「だから、《言っておく》。

《自分の命のことで》

何を食べようか何を飲もうか、

また

《自分の体のことで》

何を着ようかと思い悩むな。

《命》は食べ物よりも大切であり、

《体》は衣服よりも大切ではないか。」

 

マタイによる福音書16章25、26節

(新共同訳)

「《自分の命を救いたい》と

《思う者》は、

それを失うが、

《わたしのために》命を失う者は、

それを得る。

人は、たとえ全世界を手に入れても、

《自分の命を失ったら》、

何の得があろうか。

《自分の命を買い戻すのに》、

《どんな代価を支払えようか》。」

 

まさに、イエスが言われた主旨です。

ここでいう「命」を守り抜く為、

ヤハウェから

《仮選別されていることを》、

《最後まで守り抜かなければ》

ならない、ということでしょう。

それが上記の聖句でいう「命」なのです。

自分のやり方で、どれだけ「命」を存続させようとしたところで、

現実、どれだけ「命」を存続ささることができるでしょうか。

 

 

 

5つの事においても、やれるだけのことを行っているなら、

後は、

ヤハウェとの個人的な関係を深める為に、今こそ、利他的になるべき時と言えるでしょう。

 

一度だけの人生で、

多くの人々のうち、何の為に自分は存在しているのだろうか?

と考えている方々がまず どれだけいらっしゃるでしょうか。

 

そして、ある方々は富を得る為に。

 

ある方々は老後の安心を手に入れる為に。

 

ある方々は、自分の得意な分野で成功する為に....。

 

これは、144000人級のある方が言っておられたことですが、

ヤハウェと巡り会う前に、

今の世の中、物騒なので、護身術を極めよう、

そうすれば、自分や家族、又、大切な方を護れる、と。

そして、究極の護身術、危機管理術を編み出したそうなのですが、

結論は、それだけで終るなら、

まさに、伝道者の書の筆記者が書いているように、

「空しい、とにかく 空しい」そうです。

 

伝道者の書3章11、24節

(新改訳2017)

「しかし、私は自分が手がけた

あらゆる事業と、

そのために骨折った労苦を振り返った。

見よ。

すべては空しく、

風を追うようなものだ。

日の下には何一つ益になるものはない。

人には、食べたり飲んだりして、

自分の労苦に満足を見出すことよりほかに、何も良いことがない。

そのようにすることもまた、

神の御手によることであると分かった。

実に、神から離れて、

だれが食べ、

だれが楽しむことができるだろうか。」

 

と書かれてあります。

 

この記事を読んで下さっている多くの方々は、この心境が普通に分かると思います。

結論は、

ヤハウェとの個人的な関係を深め、

ヤハウェから是認された者、

祝福される者へと成長することでしょう。

そうでなければ

すべては「空しい」で

終了してしまうことでしょう。

 

 

次回も、

「5つの事とは?」

《高次元とのコミュニケーション》

【最新解釈版】(2)

を更新予定です。

 

 

yahweh-ksrg's blogさんの方からは、定期的に、聖書の最新の解釈記事が更新されています。

https://yahweh-ksrg.hatenablog.jp/about

 

 

 

 

 

 

【144000人の奥義】(14)《多くの者は知識を増そうと捜し回る》「ダニエル書12章の解説 ⑤」

今回は、ダニエル書12章4節後半の、

「多くの者は知識を増そうと捜し回る」

から考えたいと思います。

 

口語訳では、

「多くの者は、

あちこちと探り調べ、

そして知識が増すでしょう。」

となっています。

 

そして、新共同訳では、

「多くの者が動揺するでしょう。

そして、知識は増す。」

となっています。

 

まず、これはいつの期間のことを述べているのでしょうか?

 

確かに、日本語訳では、正確に解釈するのは難しいかも知れませんが、

なんとか理解出来なくもないでしょう。

 

では考えてゆきましょう。

 

結論から言うと、ここで言っている

「終わりの時」というのは、

終末の期間のことではありません。

 

 

このダニエル書は、ここでいう

「終わりの時」まで封印されています。

だだし、これまでにも述べてきた通り、

完全解釈は出来なかった、というだけで、

ある者たちは、ある程度は 解釈することを許されたということです。

 

そのことについては、

(新改訳2017)

「多くの者は《知識を増そうと》

《捜し回る》。」

 

(口語訳)

「多くの者は、

《あちこちと探り調べ》、そして

《知識を増す》でしょう。」

 

そして、ある程度とはいえ、

大きな苦難、そして、

ハルマゲドンの最終戦争の、

つまりヤハウェの堪忍袋の緒が切れるに至った内容を知り、

又、聖書預言の奥深さを痛感し、

ある意味、

(新共同訳)

「多くの者が《動揺する》でしょう。

そして、《知識は増す》。」

 

ということです。

 

つまり、ここで、「動揺する」者たち、というのは、

真理をある程度悟った者たちと言えるでしょう。

しかし、完全解釈したわけではなく、あくまでも、「知識が増す」程度だったということです。

 

 

もう少し具体的にいうなら、

終末の期間に入り、

ある者たちに、

(イザヤ書24章)

を通して、

ヤハウェからのインスピレーションが降り、真理の概要を知ることが許されました。

 

それからです。

 

まとめると、

 

「、、それは、ひと時とふた時、

そして半時が《過ぎるだろう》。

《さらに》」

ここから、《封印が解かれ》、

ある期間に突入した、ということです。

では次に、

同じダニエル書11章からも見てみたいと思います。

 

ダニエル書11章33~35節

(口語訳)

「民のうち

《賢い人々》は、

《多くの人》を

《悟りに至らせます》。

 

それでも、彼らはしばらくの間、

やいばにかかり、

火に焼かれ、

捕われ、

かすめられ

《などして》

《倒れます》。

 

その倒れるとき、

彼らは少しの助けを獲ます。

また多くの人が、巧言をもって彼らにくみするでしょう。

 

また《賢い者のうちのある者》は

《終わりの時まで》、

自分を

《練り》、

《清め》、

《白くするため》に

《倒れる》でしょう。

終りはなお定まった時の来るまでこないからです。」

 

(新共同訳)

「《民の目ざめた人々》は

《多くの者を導く》が、

 

ある期間、

剣にかかり、

火刑に処され、

捕らわれ、

略奪

《されて》

《倒される》。

 

こうして倒れる人々を助ける者は少なく、

多くの者は彼らにくみするが、

実は不誠実である。

 

《これらの指導者の何人》かが

《倒されるのは》

終わり時に備えて

《練り清められ》、

《純白にされるため》である。

まだ時は来ていない。」

 

(新改訳2017)

「民の中の

《賢明な者たち》は、

《多くの人を悟らせる》。

 

彼らは、一時は剣にかかり、

火で焼かれ、

捕らわれの身となり、

かすめ奪わ

《れて》

《倒れる》。

 

彼らが倒れるとき、彼らへの助けは少なく、

彼らにくみする者には巧みなことばを使う者が多い。

 

《賢明な者たち》のうちには

《倒れる者》もあるが、

それは終わりの時までに、

彼らが

《錬られ》、

《清められ》、

《白くされるため》である。

それは、定めの時がまだ来ないからである。」

 

と書かれてあります。

 

これら3つの訳を読み比べると、

何となく理解出来るかも知れません。

 

では、新改訳2017年版と新共同訳から、もう一度、ダニエル書12章3節と、11章33節を比較してみましょう。

 

ダニエル書12章3節

(新改訳2017)

「賢明な者たちは大空の輝きのように輝き、

多くの者を《義に導いた》者は、

世々限りなく、

星のようになる。」

 

(新共同訳)

「目覚めた人々は大空の光のように輝き、

多くの者の《救いとなった》人々は

とこしえに星と輝く。」

 

ダニエル書11章33節

(新改訳2017)

「民の中の賢明な者たちは、

多くの人を《悟らせる》。」

 

(新共同訳)

「民の目ざめた人々は多くの者を《導くが》」

 

お分かり頂けたでしょうか。

 

《義に導いた》

《救いとなった》

:::::::

《悟らせる》

《導くが》

 

よく似た文章ですが、日本語訳でも、違いが分かると思います。

 

では、次回から、ダニエル書11章の解説に入ります。

この預言は、yahweh-ksrg's blogさんの方から更新されている

「三日半」と、深い関連のある内容です。

又、イエスが語られたタラントの譬(たとえ)とも関連があります。

 

では、その奥義に迫ってまいりましょう。

 

 

次回は、

「5つの事とは?」

《高次元とのコミュニケーション》

【最新解釈版】(1)

を更新予定です。

このシリーズの目的は、一人でも多くの方々が、ヤハウェとの親密な関係を培う為に役立てて頂くことです。 

 

最後に、聖書の主旨は、

ヤハウェのご計画や目的に関する理解を得たいかどうか、

そして、その理解を得て、

ヤハウェの御旨を行いたいかどうか、

および真の救いを得たいかどうか、144000人級であるならば、

高次元への希望を、

つまり、高次元での全ての報いを得たいかどうか、

個人個人が、

それらを望む者になるかどうかです。

もし 関心がなければ読む必要もないでしょうし、

正確な知識を学ぶ必要もありません。

勿論、ヤハウェが望まれることを実践する必要もないわけです。

ヤハウェはイザヤに次のように言われました。

このような人々を御自分のもとに集めたいと望んでおられます。

イザヤ書25章9節

(新改訳2017)

「その日、人は言う。

『見よ。この方こそ、

待ち望んでいた

私たちの神(*エロヒム)。

私たちを救ってくださる。

この方こそ、私たちが待ち望んでいた主(*ヤハウェ)。

その御救いを楽しみ喜ぼう。』」

 

そうです。

『その御救いを楽しみ喜ぼう。』

ということです。」

 

 

yahweh-ksrg's blogさんの方からは、

聖書の最新の解釈記事が定期的に更新されています。

https://yahweh-ksrg.hatenablog.jp/about

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

お知らせ✍️5つのこと《高次元とのコミュニケーション》

現在の世界情勢や国内情勢を分析されて、益々悪くなっていることを知覚されておられる方々は正常と言えるかも知れません。

現在、世界で起きていること、そして国内で起きていることの、余りにもの違和感、着実に、終わりへと突き進んでいることを肌で感じておられる方々が、どれ程いらっしゃるでしょうか。

 

 

それで、

あらためて、

5つの事

From KSRGさんのYouTubeチャンネルの、

「5つの事とは」

の中で説明されている内容を実践して下さったらと思います。

 

 

そして、5つ目の、

「高次元とのコミュニケーション」

に関しては、当ブログから、後日、

「5つの事とは?」

《高次元とのコミュニケーション》【最新解釈版】として、

シリーズという仕方で更新致します。

 

 

そして、万が一の為に、

書籍版の聖書を購入されることをおすすめ致します。

 

(可能な方は、新改訳聖書2017年版

 

勿論、

口語訳、新共同訳、又は、改訂版として発行される前の新改訳聖書

特に、昔の新改訳聖書には、2017年版とは違う意味で、持っていると益があります。)

 

後は、霊的な食物を何かしらの仕方で保存されることもおすすめしたいと思います。

 

又、天的な希望ではなく、

地的な希望者の方々は、

大きな苦難中、

予測不能の気象状態故に、

太陽光からのエネルギーを調達することは出来ないでしょう。

 

ゼカリヤ書14章6、7節

(口語訳)

「その日には、寒さも霜もない。

そこには長い連続した日がある

(主はこれを知られる)。

これには昼もなく、夜もない。

夕暮れになっても、光があるからである。」

 

解釈的には、この時は、

何かしらの奇跡的なヤハウェからの力で、地球上が保たれているものの、

地球はその間、公転もしていなければ自転もしていない、ということを、この聖句から読み取ることができます。

通常なら、そのような状態が続けば地球上の生物は絶滅してしまうことでしょうが、その時には 奇跡が生じるということです。

この時、少数の人々は、自分たちはヤハウェに生かされていることを自覚するでしょう。

ただし、改心するかどうかは、その時にならないと分かりません。

話を戻しますが、

この大きな苦難中に、

自分の霊性を保つ為に、

書籍版の聖書、そして、霊的な食物を何かしらの仕方で保存されることをおすすめ致します。

 

又、ヨハネの黙示録16章は、

後日、あらためて、

yahweh-ksrg's blogさんの方から、

最新の解釈記事として更新される予定ですが、

一部、注解を記載したいと思います。

 

ヨハネの黙示録16章10節

(新改訳2017)

「第五の御使いが鉢の中身を獣の座に注いだ。

すると、

獣の王国は《闇におおわれ》、

人々は《苦しみのあまり》舌をかんだ。」

 

と書かれてありますが、

これは、最新のテクノロジーが何かしらの仕方で、全く機能しなくなった時の、人々が発狂する様子を表しているようです。

つまり、電源がどのようなものであろうと、その時になれば、

全てのコンピューターは ただの粗大ゴミ同然になるということです。

 

 

さて、

現在、世界中で、少数ではあるものの、

気づきがあった方々が

ヤハウェの御名を呼び求めています。

ローマ人への手紙10章13~15、18節、

(新改訳2017)

「『主(ヤハウェ)の御名を呼び求める者はみな救われる。』のです。

 

しかし、信じたことのない方を、

どのようにして呼び求めるのでしょうか。

 

聞いたことのない方を、

どのようにして信じるのでしょうか。

 

宣べ伝える人がいなければ、

どのようにして聞くのでしょうか。

 

遣わされることがなければ、

どのようにして宣べ伝えるのでしょうか。

 

、、、では尋ねます。彼らは聞かなかったのでしょうか。

 

いいえ、むしろ、

 

『その響きは全地に、

そのことばは、世界の果てまで届いた』のです。」

 

と書かれてあるこの聖句が、成就しています。

 

この国内においても、

正しい仕方でヤハウェの御名を呼び求め、メッセンジャーとして活動していらっしゃる方々もおられます。

 

この国内で、どれだけの方々が、

ヤハウェから仮選別されているか分かりませんが、

 

次のパウロの言葉を肝に銘じてまいりましょう。

 

ヘブル人への手紙6章10節

(新改訳2017)

「神は不公平な方ではありませんから、

あなたがたの働きや愛を忘れたりなさいません。

あなたがたは、

これまで聖徒たちに仕え、

《今も仕えることによって》、

神の御名のために愛を示しました。」

 

コリント人への手紙 第一15章58節

 

(新改訳2017)

「ですから、

私の愛する兄弟たち。

堅く立って、動かされることなく、

《いつも》主のわざに励みなさい。

あなたがたは、

自分たちの労苦が

主にあって

《無駄でないこと》を知っているのですから。」

 

と書かれてある通りです。

 

現在、米国では大変な事態が生じています。

聖書のなかの最後の世界強国は、

米国(*正確には英米二重世界強国

なぜ、英米なのか?

それは、イギリスが大バビロンの本拠地であり、現在のアメリカを動かしているのは、イギリスだからです。

この辺りの解釈は、ダニエル書と関連がありますので、後日、当ブログから更新予定です。)

いつ、第八が大バビロンを焼き尽くしてもいいように、用意をしてまいりましょう。

現在、これほどまでに異常な世の中になっているのに、多くの人々の関心事とは何でしょうか?

 

エスは言われました。

マタイの福音書6章25、31~33節

(新改訳2017)

「ですから、わたしはあなたがたに言います。

何を食べようか何を飲もうかと、

《自分のいのちのことで》

心配したり、

何を着ようかと、

《自分のからだのことで》

心配したりするのはやめなさい。

いのちは食べ物以上のもの、

からだは着る物以上のものではありませんか。

ですから、

何を食べようか、

何を飲もうか、

何を着ようかと言って、

心配しなくてよいのです。

これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。

あなたがたに

《これらのものすべてが必要》であることは、

《あなたがたの天の父》が

《知っておられます》。

《まず》神の国と義を求めなさい。

そうすれば、

《これらのものはすべて》、

《それに加えて与えられます》。」

 

と書かれてあります。

 

ですから、今 優先すべきことを最優先して頂けたらと思います。

 

 

エペソ人への手紙5章15~17節

(新改訳2017)

「ですから、

自分がどのように歩んでいるか、

あなたがたは

《細かく注意を払いなさい》。

知恵のない者としてではなく、

《知恵のある者》として、

《機会を十分に活かしなさい》。

悪い時代だからです。

ですから、愚かにならないで、

《主のみこころ》が

《何であるかを悟りなさい》。」

今、気づきのあられた方々は、

是非、知恵のある者として、

つまり、聖書の正確な知識を正しく判断し、実践し続けることによって、霊的な感覚を更に養い、

(・今の自分にとってのヤハウェの御心が何であるかを見極め)

自分に与えられた機会を十分に活用してゆきましょう。

 

 

 

yahweh-ksrg's blogさんの方からは、聖書の最新の解釈記事が定期的に更新されています。

https://yahweh-ksrg.hatenablog.jp/about

 

 

 

 

 

 

 

 

「本日の聖書の言葉」⑤《詩編119編97節~ ヤハウェのみおしえとは?》【後編】

今回は、前回からの続きです。

 

その前に、

今、yahweh-ksrg's blogさんの方から、ヨハネの黙示録11章の最新の解釈記事が更新されていますが、この11章は、旧約の他の預言書と照らし合わせないと意味が掴めません。

難しく思えるところもあるかも知れませんが、皆様が、定期的に個人研究をして下さり、

ヤハウェからの祝福を享受出来ますよう祈っております。

さて、もう少し先になるかも知れませんが、yahweh-ksrg's blogさんの方から、

(*勿論、それまでに大きな苦難に突入しなければ、ということですが)

ヨハネの黙示録16章の最新の解釈記事を更新される予定ですので楽しみにしたいと思います。

 

 

では本論に入ってゆきましょう。

 

まず、前回考えた、詩編119編の筆記者ですが、

恐らくヒゼキヤです。

ヒゼキヤの名前の由来は、

「 ヒゼキ 」→  ( 力を与えて下さる )

 

「 ヤ 」→   ( ヤハウェの短縮形 )

ヤハウェが力を与えて下さる 」

 

という意味です。

 

ヒゼキヤについては、

ソロモンの書き記した箴言に関心を抱いていたことが次のように、書かれてあります。

箴言の写本の編さんに貢献したことは有名な話です。

 

箴言25章1節には次のように書かれてあります。

(新改訳2017)

「次もソロモンの箴言であり、

ユダの王ヒゼキヤのもとにある人々が

書き写したものである。」

 

と。

 

勿論、それらの事を行ったのは

ヒゼキヤだけではありません。

 

 

ここで、

「、、ヒゼキヤのもとにある人々が書き写したものである。」

 

とあります。

 

《ヒゼキヤのもとにある人々》 というのは、《写字生》たちのことですが、

この写字生たちの一団を指揮していた人物、そして 更に、

ヒゼキヤを教育し、

訓練していたヤハウェ預言者です。

 

その預言者というのはイザヤです。

 

イザヤの名前の由来は、

 

「 イザ 」 →   ( 救って下さる )

 

「 ヤ 」 →   ( ヤハウェの短縮形 )

ヤハウェは救って下さる 」

 

という意味です。

 

 

後に、イザヤは、

ヤハウェからの啓示を受け、

イザヤ書という大預言書を筆記することになるわけですが、

イザヤは、預言書を書く前から、

ヒゼキヤを教育していたわけですが、そのことを思わせる根拠ともなる聖書の言葉が、詩編119編の中に数多く書き記されています。

恐らく、ヒゼキヤは、イザヤから学んだことを、パピルス紙に書き記していたのでしょう。

それが、後に、詩編の一部になったということです。

 

イザヤは、偉大な教育者ヤハウェから、王の教育を任されていました。

 

 

では、詩編119編から一部抜粋して、イザヤからどのような教育を受け、訓練されていたのか、

ヒゼキヤ自身の言葉と、

後に、イザヤが筆記することになるイザヤ書と比較してみましょう。

 

 

例えば、

詩編119編26節を見ると、

(新改訳2017)

「私は自分の道を申し述べました。

すると、

あなた(ヤハウェ)は私に答えてくださいました。

どうか あなたのおきてを

私に教えてください。」

ヒゼキヤは個人的なプレイヤーの時、ヤハウェに、

 

「自分はこうしようと思いますが、ヤハウェ、あなたの意見はどうでしょうか?」

 

と尋ねたわけです。

すると、ヤハウェは、

最も相応しい時に答えを与えて下さった、ということです。

 

更に、引き続き、自分を導き続けてほしい、と嘆願した、ということです。

ヤハウェは、時にはインスピレーションを与えて、気づかせたり、

イザヤを通して、御言葉の正確な知識を与えたことでしょう。

 

後にイザヤは、ヒゼキヤのこの経験も含め、更にヤハウェから啓示された預言を、

次のように書き記したのです。

イザヤ書30章20、21節

(新改訳2017)

「、、、

あなた(ヤハウェの僕)の目は

あなたを教える方(ヤハウェ)を

見続ける。

あなたが右に行くにも左に行くにも、

うしろから

『これが道だ。これに歩め』ということばを、

あなたの耳は聞く。」

 

と後に、イザヤは筆記しました。

 

ヤハウェの僕たちは、ヤハウェとの個人的な関係を深めてゆけば、

「右に行くにも左に行くにも」

つまり、人生という歩みには、

色々な判断、決定を下さなければなりませんが、

その結果 途中でどう転んだとしても、

或いは、脇道にそれたとしても、

しっかりとヤハウェと繋がっているなら、

ヤハウェが、行くべき道を、

又、最終目標へと導いて下さる、ということです。

時には、インスピレーションで気づかせて下さる時もあるでしょうし、もしかしたら、正確な知識を黙想して正しい結論に至ることもあるかも知れません。

 

 

 

では、

もう一つの例も考えてみましょう。詩編119編105節です。

これは、ヒゼキヤが、

イザヤから教育され、訓練されて、実践した経験からこの結論に至ったものと思われます。

 

(新改訳2017)

「あなたのみことばは

私の足のともしび

私の道の《光》です。」

 

後に、イザヤは、ヒゼキヤに教えた真実のみならず、この事実が更に拡大し、全世界にいる全てのヤハウェの民に対しても同じだということを次のように筆記しました。

イザヤ書51章4節

(新改訳2017)

「わたしの民よ、

わたしに心を留めよ。

わたしの国民よ、

わたしに耳を傾けよ。

おしえはわたしのもとから出て、

わたしが、

わたしのさばきを

諸国の民の《光》と定めるからだ。」

 

と。

 

これらはほんの一部ですが、

イザヤ書の預言は、詩編119編を補足する仕方で、預言的に書き記されている部分が多数あります。

 

さて、今回の話の結論です。

 

もう一度、詩編119編97~99節に注目してみましょう。

 

(新改訳2017)

「どれほど私は

あなたのみおしえを

愛していることでしょう。

それが いつも(*直訳「一日中」)

私の思いとなっています。

あなたの仰せは

私を敵よりも賢くします。

それがとこしえに私のものだからです。

私には

私のすべての師にまさる賢さがあります。

あなたのさとしが私の思いだからです。」

 

と、このように詩編119編につづったのです。

ヒゼキヤは王であり、学者、詩人、

数学者、賢者、戦士、指揮官、

画家、弦楽器奏者、管楽器奏者、

指揮者、歴史家、建築設計家でした。

様々な学問や芸術、更に戦闘術に熟知していました。

そのような中で、様々な師と仰ぐ者たちがいたかも知れませんが、

ヒゼキヤの言葉を借りるなら、

「私には

私のすべての師にまさる賢さがあります。」

 

と言い切ることが出来ました。

 

確かにヒゼキヤは、世間一般でいう、いわゆる凡人ではなかったかも知れませんが、

(*一般的に考えるなら並の人物ではなかったかも知れません。)

 

それら 自分が今までに修得してきたもの、

又、それらを修得させてくれたどんな師よりも、もっと価値あるものが自分にはある、と言いたかったわけです。

 

それが、御言葉の《正確な知識》です。

 

イザヤは御言葉において、師ではありませんでした。

御言葉については、あくまでも、

偉大な教育者はヤハウェでした。

 

イザヤはヤハウェに用いられていた従属の教育者に過ぎません。

 

興味深いことに、

詩編119編97節をまず、口語訳聖書の訳を見ると、

(口語訳)

「いかにわたしは

あなたの《おきて》を

愛することでしょう。

わたしはひねもす

これを深く思います。」

 

と訳されています。

 

新共同訳では、

(新共同訳)

「わたしはあなたの《律法》を

どれほど愛していることでしょう。

わたしは絶え間なく

それに心を砕いています。」

 

と訳されています。

 

しかし、新改訳2017年版では、

(新改訳2017)

「どれほど私は

あなたの《みおしえ》を

愛していることでしょう。

それがいつも

私の思いとなっています。」

 

と訳されています。

 

この部分に関しては、

新改訳2017年版の訳し方が、一番、原語に近い訳し方がなされています。

確かに、どの訳し方も間違いではありません。

御言葉は、

ヤハウェの「おきて」であり、

「律法です。」

しかし、新改訳2017年版によると、

「みおしえ」なのです。

 

 

【みおしえ】

解釈的には、

ヤハウェの御言葉を、正しく解釈し、理解した正確な知識を、正しい判断力、識別力、洞察力を働かせて、実践することにより、その経験によって得た真理のこと。」

御言葉(聖書)は、《正しく解釈》し、

《理解した正確な知識》を

《実践》しないなら、

  益はありません。

これまで何度も述べてきた通りです。

そのような経験の繰り返しによって、人は霊的に進歩してゆくのです。

 

 

ヤコブの手紙1章22節に、

(新共同訳)

「御言葉を《行う人》になりなさい。

自分を欺いて、

《聞くだけで終わる者》

になってはいけません。」

 

と書かれてある通りです。

 

 

御言葉を行う者になる為には、

正確な知識が必要です。

 

 

では、新改訳2017年版の詩編119編97節に、もう一度、注目しましょう。

(新改訳2017)

「どれほど私は

あなたの《みおしえ》を

愛していることでしょう。

それがいつも

私の思いとなっています。」

ヤハウェの「みおしえ」です。

 

聖書は知っているだけでも、

概観出来ているだけでも、

聖句を沢山知っているだけでも意味はありません。

 

繰り返しますが、

まず、正しく解釈し、

理解した正確な知識を実践しないと意味がない、ということです。

 

ですから、ヒゼキヤは、

*個人的には、イザヤから、

*民が教育される時には、大祭司から、

真剣に、御言葉を学んでいた、ということです。

 

当時の民の教育は、安息日に行われていました。

又一年に幾度か、ヤハウェを賛美するための祭りがあり、その時も、

大規模な教育活動がなされていました。

 

その日は、一日中御言葉について

学んでいた、ということです。

 

更に、個人的には、時々、イザヤを呼び、訓練を受けていたことでしょう。

では今日はどうでしょうか?

 

正しく解釈された正確な知識が、

どこから伝えられているのかを

まず、見極める必要があります。

教育者はヤハウェです。

 

分からない方々は、

まずヤハウェに祈り、

「真理の正確な知識へと導いて下さい」、と

プレイヤーを行って、見極めて頂けたらと思います。

そして、

是非、ヒゼキヤのように、日々、

学んだ正確な知識を、

正しい判断力、識別力、洞察力を働かせて、実践し、実践し、実践することにより、その経験を通して、

次のように言えるようになって頂けたらと思います。

「どれほど私は

あなたの みおしえ を

愛していることでしょう。

それがいつも

私の思いとなっています。」

 

今回は以上です。

 

 

 

 

 

「本日の聖書の言葉」⑤《詩編119編97節~ 「どれほど私は あなたのみおしえを 愛していることでしょう」》【前編】

今回も、詩編119編の筆記者の書いた心にしみる言葉から、霊的な糧を得てまいりましょう。

 

詩編119編97~99節

(新改訳2017)

「どれほど私は

あなたのみおしえを

愛していることでしょう。

それはいつも

私の思いとなっています。

あなたの仰せは

私を敵よりも賢くします。

それがとこしえに

私のものだからです。

私には

私のすべての師にまさる賢さがあります。

あなたのさとしが

私の思いだからです。」

 

何という明言でしょうか。

 

この詩編を書いたのはダビデではありませんが、

恐らく、ダビデ以降で、

南のユダ王国と北のイスラエル王国とに分裂後の、

バビロン捕囚前の、

ユダ王国の王の誰か? でしょう。

この詳細については次回の【後編】でお伝え致します。

 

さて、

その当時の情勢を考えてみると、

残忍さで有名なアッシリア帝国

ユダ王国に対しても、かなりの脅威だったに違いありません。

 

 

そのような情勢の中で、

王として、自国民を何とか敵国から保護しなければならない、

という責任がありました。

もしかしたら、自分だけではなく、家族も、部下たち、

又、自分を信頼してくれている国民が、残虐な目に遭うかもしれない、

そのような状況と常に隣り合わせだったわけです。

 

 

一般の人々には恐らく分からないかも知れない重責を感じていたことでしょう。

 

普通なら重責に押し潰されてしまってもおかしくはなかったのです。

 

では、そのような様々な脅威の中でも、正常な思考を維持させ、

その責務を果たしきる事が出来るように、王を助けたものは何だったのでしょうか。

 

この王はこのように述べています。

(新改訳2017)

「どれほど私は

あなたのみおしえを

愛していることでしょう。」

 

まず、この王は、

ヤハウェのみおしえを愛していた、ということです。

これは経験からの確信です。

ただし、御言葉聖書は、

ただ、知っているだけでも、

ある程度、通じているだけでも、

沢山、聖句を知っているだけでも意味はありません。

 

このことは、モーセの時代から行われていたことですが、

正しく解釈する者がまず必要だということ。

そして、正確な知識に基づいて、

学んだ個人が、正しい判断のもとで実践してこそ価値があります。

 

 

(*分かりやすい例としては、聖書の神、天の父は、ヤハウェです。

新共同訳聖書の、用語解説という項目の、「主」

というところには、

旧約聖書中、イスラエルの神は種々の名称で呼ばれており、

そのうち最も多いのがいわゆる

神聖四文字

YHWH(6.500回以上)である。

この語の正確な読み方は分からないが 一般にヤーウェ または、

ヤハウェ(文語訳ではエホバ)と表記されている。」

 

と記載されています。

共同訳聖書実行委員会は、

イスラエルの神は種々の名称で呼ばれており、」

とありますが、これは、

例えば、

①『ある』→『「字義的には なるもの」

これは、全てのものになる、ということで、つまり、

様々な称号を有しておられるという意味で表記されているのであり固有の名前ではありません。』

 

②『エロヒム』→『これはヘブル語で唯一の神、という意味であり、

日本語では、大抵、「神」と訳されていて、これも名前ではありません。』

 

③『アドナイ』→『これは、ヘブル語で「我らの主」という意味であり、これも名前ではありません。』

 

④『ヤハ』→『ヤハウェの短縮形です。』

 

 

⑤『エホバ』→『これは、1800年当時、

流行った英訳聖書の 

Jehovah (ジェホーヴァ)を日本語に訳したもの。

日本聖書協会の文語訳聖書には、

エホバと訳されていました。

 

しかし、この呼び方は明らかに間違っています。

もし、Jehovahが正しいのであれば、

神聖四文字は JHVHであり、

YHWHとはなりません。

 

更に、新共同訳聖書 用語解説には、

「この語の正確な読み方は分からないが、」

と書かれてありますが、

これはただ、共同訳聖書実行委員会としては分からない、ということであり、一般には

ヤハウェで間違いありません。

 

少し説明が長くなりましたが、

ここで言いたいことは、対称となる神の名があやふやである時点で、神を愛することなど出来るでしょうか。

という点です。

ですから、正確な知識がいかに大切かということです。』

これは一例ですが。)

 

 

話を戻しますが、

一般の国民には、

レビ人である祭司団が責任をもって、御言葉の正確な知識を正しく解釈し、伝えなければなりませんでした。

このことは、バビロン捕囚から帰還した後にも行われていました。

例えば、ネヘミヤ記8章7、8節には次のように書かれてあります。

(新改訳2017)

ヨシュア、バニ、シェレベヤ、

ヤミン、アクブ、シェベダイ、

ボディヤ、マアセヤ、ケリタ、

アザルヤ、エホザバデ、ハナン、

ペラヤなどレビ人たちは、

民に律法を《解き明かした》。

その間、民はその場に立っていた。彼らが神のみおしえの書を読み、

《その意味を明快に示したので》、民は読まれたことを

《理解した》。」

 

と書かれてある通りです。

 

 

更に、王は、御言葉を正しく解釈してくれる大祭司以外にも、

常に、ヤハウェから任命された預言者がいました。

では、この王に、御言葉を正しく解釈して、

明快に理解させていた預言者とは誰だったのでしょうか。

 

この王は御言葉をこよなく愛していました。

なぜなら、この王に御言葉の正確な知識を明快に理解させた預言者は、

理解させたことをとにかく《実践》させました。

(*伝承によると、この預言者は、

旧約時代における、イエス・キリストといえるほどの、ヤハウェの僕だったそうです。)

 

では、この預言者とは誰だったのでしょうか?

そしてどのような仕方で、この王を訓育し、成長させたのでしょうか?

今回の記事の内容は、今日の私たちにとってなぜ、有益といえるのでしょうか。

 

又別の観点からも、

今回の内容は、

《今の私たちにとって》、とても

重要な教訓を含んでいます。

王という立場だから、といって、決して他人事ではありません。

 

何故なら、144000人級は、将来、

《とこしえの王》として、三次元物質宇宙のみならず、高次元をも統治しなければならないからです。

 

ヨハネの黙示録22章5節

(新改訳2017)

「もはや夜がない。

神である主(ヤハウェ)が

彼ら(144000人)

を照らされるので、

ともしびの光も太陽の光もいらない。

彼らは世々限りなく王として治める。」

と書かれてある通りです。

 

次回は、この王が誰で、それを訓練した預言者が誰なのかを明らかに致します。

私たちは、この詩編119編を編さんした王からも、

この王を訓練した預言者からも、

最大の模範を学ぶことが出来ます。

 

では次回の【後編】の記事から更に教訓を学んでゆきましょう。

 

 

yahweh-ksrg's blogさんの方からは、聖書の最新の解釈記事が定期的に更新されています。

https://yahweh-ksrg.hatenablog.jp/about

 

 

 

 

 

 

 

 

【ヤハウェのみ旨 保存版 ⑦】《プレイヤーの奥義 ①》

今回は、プレイヤーの奥義ということで、

まず、ヘブル人への手紙11章6節から考えてゆきましょう。

 

(新改訳2017)

「信仰がなければ、

神に喜ばれることはできません。

神に近づく者は、

神がおられることと、

神がご自分を求める者には

報いてくださる方であることを、

信じなければならないのです。」

 

と書かれてあります。

 

ヘブル人への手紙11章は、

信仰の定義から始まり、

信仰の模範的な人物が列挙されています。

 

それで、最初の、

「神に近づく者は、

神がおられることと、」

 

つまり、真の神が実在しておられることをまず信じなければならない、ということです。

 

これが最初の大前提です。

 

ヘブル人への手紙11章を読むと、

ヤハウェの僕たちが、ヤハウェをどれだけ実在者として意識していたかを知ることが出来ます。

 

例えば、ヘブル人への手紙11章27節を見ると、モーセについて、

(新改訳2017)

「信仰によって、

彼は王の憤りを恐れることなく

エジプトを立ち去りました。

《目に見えない方》を

《見ているようにして》、忍び通したのです。」

 

と書かれてある通りです。

 

 

皆様は、どうでしょうか、

真の神ヤハウェが実在しておられることをどの程度、

信じておられるでしょうか?

 

 

そして次です。

「神がご自分を求める者には

報いてくださる方であることを、

信じなければならないのです。」

 

ということです。

 

神、ヤハウェが、

「ご自分を求める者には

報いてくださる方であることを信じなければならないのです。」

 

ということです。

 

皆様は、この聖句のどの部分に注目されたでしょうか?

 

「ご自分を求める者には」

 

と訳されている部分なのですが、

 

解釈的には、

「心から求める、本心から、

切なる思い、必死に、

心からの強い思い、

切実に、

これまで辛く悲しい経験を何とか乗り越えた者が、最後の望みの綱として、切に信じ、訴えかける、このような真剣さ。」

を抱いて、ヤハウェに近づくなら、

ということです。

 

そのようにして近づいてくる者を、ヤハウェが無下に扱われるでしょうか。

 

勿論、祈りに対するヤハウェからの答えが与えられるのは、

必ずしも直ぐに、ということではないかも知れません。

当人にとって一番相応しい時です。

ですから、待たなければならない時もあります。

 

ただし、秘訣は、プレイヤーを行ったら、必要以上に、思い煩わない、ということです。

 

 

さて、このブログの記事を読んで下さっている皆様も、当然、

日々、プレイヤーでヤハウェに近づいておられることでしょう。

 

そして、プレイヤーの為の時間を、優先順位の上位の方に取り分けておられる方もいらっしゃるかも知れません。

 

しかし、不完全な人間である以上、その限られた時間内に、と考えてしまい、

時には、気持ちがこもっていない、

お決まりの、ただの習慣のような感じで、

あれもこれも、と言った具合に、

その時に、全てを祈らないといけない、となるかも知れません。

 

時間も限られていますし、そうなると、

心からの切実なプレイヤーとは、

言えないのでは、と感じるかも知れません。

これは一例ですが。

 

 

例えば、

テサロニケ人への手紙 第一5章17節を見ると、

「絶えず祈りなさい。」

 

と書かれてあるからと言って、

プレイヤーだけに相当の時間を費やしてしまうのは現実的ではないかも知れませんね。

 

私たちは、各自 日々の生活の中で様々な責任を果たさなければならないからです。

 

ではどうすればよいのでしょうか?

 

 

プレイヤーは、儀式ではありませんから、場所や姿勢、時間や形式に、こだわる必要はありません。

 

勿論、イエスがマタイの福音書6章の中で言われた模範的な祈りは重要かも知れませんが、

その他の祈りに関しては、

何としても 自分がいつも取り分けている時間内に絶対に祈らなければ、と考える必要もありません。

 

どういうことかといいますと、

 

↓✍️

常に、ヤハウェと繋がっている状態だと考えてみて下さい。

常にヤハウェが身近にいて、

自分の心からの気持ちを込めた願いや相談などを聴いて下さっている状態、ということです。

 

だからと言って、いつもヤハウェのことを意識していないといけない、という意味ではありません。

 

時には何も考えたくない時もあるでしょうし、リフレッシュしたい時もあるでしょう。

 

しかし、今はヤハウェに身近にいて欲しいと思った時には、遠慮なく、

ヤハウェ、今は側にいて下さい。」

でいいわけです。

その時に、心の中から、ヤハウェに話しかけることも出来るでしょう。

自分の都合のよい時に、

全能の神に対して、そんなことは失礼では、と思われるでしょうか。

 

ヤハウェはそのような不完全な人間の願いや都合も考慮して下さるのです。

ヨハネの手紙 第一3章20節

(新改訳2017)

「たとえ自分の心が責めたとしても、

安らかでいられます。

神は私たちの心よりも大きな方

であり、

すべてをご存じだからです。」

と書かれてある通りです。

 

(新共同訳)

「心に責められることがあろうとも。

神は、

わたしたちの心よりも大きく、

すべてをご存じだからです。」

 

と書かれてある通りです。

 

 

更に、悪魔の世で生活している以上、悩みは絶えません。

 

もし、一日の自分が取り分けてある時間内に、何もかも、

祈らなければならない、としたら、

何か重要なことを祈れなかったり、祈り忘れたと気づくことが生じるかも知れません。

しかし、パウロはそのような場合でも心配しなくてもいいということを、次のように述べています。

ローマ人への手紙8章26、27節

(新改訳2017)

「同じように御霊も、

弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、

何をどう祈ったらよいか分からないのですが、

御霊ご自身が、

ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。

人間の心を探る方は、

御霊の思いが何であるかを知っておられます。

なぜなら、

御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。」

 

と書かれてある通りです。

 

少し難しい表現かも知れませんが、要するに、

聖霊が、

不完全な私たちを助けてくれる、

ということ、

そして、祈りに関しても、

私たちの心からのうめきを聖霊がくみ取ってくれて、

ヤハウェに全てを、きちんと、

自分の本心を伝えてくれる、ということです。

もし、仮に重要と言えることを祈り忘れていたとしても、聖霊がしっかりとその人の本心からの望みを伝えてくれるのです。

 

 

その為に聖霊が与えられているのです。

 

祈りは、ヤハウェとの会話です。

一方通行のように感じるかも知れませんが、ヤハウェは本人が望むなら、全てを聞き入れて下さいます。

形式ばる必要はないのです。

 

✍️

ですから、

一日の自分が取り分けてある時間にまず、祈りたいことを祈るなら、

後は、《常に》

ヤハウェと繋がっている状態》にしておくことも出来る、

ということを今回はお伝えしました。

 

 

では

最後に、ネヘミヤの経験からも、

学んでまいりましょう。

 

当時ネヘミヤは、

アルタクセルクセス王の側近で仕えていた人物です。

エルサレムの神殿と城壁の再建に関して、深刻な悩みを抱えていましたが、

立場上、王の側から離れることなどあり得ないことでした。

ネヘミヤは相当悩んでいたのでしょう。

その時、アルタクセルクセス王が

ネヘミヤに、

ネヘミヤ記2章4節(前半)

(新改訳2017)

「王は私に言った。

『では、何を望んでいるのか。』」

 

この時、ネヘミヤは、王との会話の途中でした。

 

ネヘミヤはどうしたのでしょうか?

4節(後半)

「私は天の神に祈ってから、」

 

と書かれてあります。

 

「私は天の神に祈ってから、」

 

そうです。

アルタクセルクセス王に気づかれない仕方で、心の中でヤハウェに祈ったのです。

 

 

その結果どうなったのでしょうか。

 

ネヘミヤの望み通り、ネヘミヤは

エルサレムへと向かうことになったのです。

 

これが今回のプレイヤーの奥義です。

 

今回の記事全体から、趣旨を読み取って頂けたらと思います。

 

 

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