【ヤハウェのみ旨 保存版 ②】《愛とは? (1)》

最初に、今回は、「愛」について考えますが、

今回の記事だけで、「愛」を全て説明しているわけではありませんので、

ご了承下さい。

 

では、本論に入ってゆきたいと思います。

 

今回は、聖書でいう「愛」を、

パウロの手紙から解説してゆきたいと思います。

 

コリント人への手紙 第一 13章4~7節ですが、

新改訳2017年版

口語訳

新共同訳

そして、

ギリシャ語の意味から

考えてゆきたいと思いますが、

まず、4節で

 

(新改訳2017)

「愛は寛容であり、親切です。」

 

(口語訳)

「愛は寛容であり、愛は情け深い。」

 

(新共同訳)

「愛は忍耐強い。愛は情け深い。」

 

となっています。

 

ギリシャ語の意味からすると、

先程の訳の全てが包含されます。

 

まず、この節で、パウロがいいたい事は、

自分にとって、不都合な状況が生じた場合、

又は、自分に対する他の人の間違った行為に対して、

忍耐し、辛抱し、状況によっては心よく許す、寛容になれるか?

ということです。

 

(ただし、明らかに、

相手側に悪気があって、

こちらを困らせる意図があった場合は、

出来るだけ、関わらないことが出来るならベストでしょう。

更に、聖書の義の基準に反する事なら、毅然とした態度を示すことも、時には必要となってくるかも知れません。)

 

又、どのような挑発を受けても、

親切を示せるでしょうか。

 

(勿論、これも、相手側に悪意があるか、

それとも相手の勘違いゆえか、

その他色々なケースがあるかも知れませんが、

その時は識別力を働かせて対処する必要があるかも知れません。)

 

そのような時は、出来るだけ、

《自分からは》、過剰に反応したり、

荒々しい態度で対応するのではなく、

冷静に、しかも親切に、

更に、忍耐や辛抱、或いは、自制と言った特質を示して対応する、ということです。

 

🖌️

このような時に、自分は利他的かどうかが試されます。

《他の人の永続的福祉》に対する

《誠実な関心》がどれだけあるか、ということです。

 

 

しかし、自分に出来ない事や、

ヤハウェの義の基準に反する事を相手側が要求してきた場合には、

時には、毅然とした態度を示す必要があるかも知れませんが、

その辺は、状況によって、知恵を働かせて対処しなければならないかも知れません。

 

更に、4節後半を見ると、

 

(新改訳2017)

「また人をねたみません。

愛は自慢せず、高慢になりません。」

 

(口語訳)

「また、ねたむことをしない。

愛は高ぶらない、誇らない、」

 

(新共同訳)

「ねたまない。愛は自慢せず、

高ぶらない。」

 

となっています。

 

これらも全ての訳し方の意味は間違っていません。

 

まずは、

「ねたまない」、ということですが、

例えば、他の人に何かしらの良いことが生じた場合、当然妬まないでしょう。

 

他の人がどうであろうが、

自分の今の境遇を受け入れ、

満足し、出来る可能な限りの努力を惜しまず、

 

《自分自身が、今ヤハウェからどう見られているか》に

《深い関心》を抱いていますので、

他の人の成功や立場、良いことなどで、

がっかりしたり、残念に思う事はないでしょう。

 

次に、考えることは、

自分を実際より大きく見せようとしたり、

自分に何かしらのことで、

注意を引いたり、

或いは、気をつけないと、

聖書の解釈などでも、

明らかに、

ヤハウェからのインスピレーションが与えられ、

というのであれば間違いないかも知れませんが、

単に、自分の主観や思い付き

《だけ》で、

自分の考えを伝える、というのも、

他の人にどのような影響を及ぼすことになるかを考えたら、どうでしょうか?

 

以下の点に注意をはらうことが出来るかも知れません。

いつもお伝えしていることかも知れませんが、

必ずヤハウェにプレイヤーを行う。

ヤハウェを高め、

他の人々をヤハウェへと導き、

聖書の正確な知識へと導いたり、

ヤハウェの義の基準に導いたり、

又は、誠実に他の人を励まし、

築き上げ、力づけ、爽やかにし、

慰めるものとなっているか?

それとも、ただ単に、自分に注意を引くことになっていないか?

特にメッセンジャーは、その点に、

気をつけることが必要でしょう。

 

では、5節に注目しましょう。

 

(新改訳2017)

「礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、」

 

(口語訳)

「不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。」

 

(新共同訳)

「礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。」

 

となっています。

 

まず、

誰に対しても、失礼であったり、

下品であったり、

無礼であったり、不遜であったり、粗野であったり、不敬であったりはしないでしょう。

これらの事を心掛けるだけでも、

不必要なトラブルに巻き込まれずにすむかも知れません。

 

更に、自分の利益を求めず、ということですが、

これは、今の悪魔の体制での利益です。

それが、

物であろうが、

資産であろうが、

地位や立場であろうが、

環境であろうが、

又は、自分が悪魔の世で培ってきた価値観や概念や思考、

これらはいずれ過去のものとなりますので、

新しい世で、どれだけ価値のあるものでしょうか?

少し考えてみて下さい。

 

 

例えば、

今以上のものを求めようとしていなくても、今あるものに、過度に固執しているならどうでしょうか?

 

今の社会的な地位や立場、

 

これまで自分が行ってきた、或いは培ってきたかも知れない何かしらの功績、

(これには色々な事が関係しています。各自、祈りのうちにヤハウェに気づかせて頂く事が出来るかも知れません。)

 

《愛》は《利他的》です。

今は《自分》ではなく、

《他の人の永続的な福祉》に対する《誠実な関心》が試されています。

 

又、苛立たない、ということですが、

皆様は、何かしら、自分にとって、嫌な事が生じた場合、苛立ちやすいでしょうか?

 

他の人の行為に対して、

すぐにイラッとするでしょうか?

刺激されたら苛立ちますか?

 

自分の個人的な威信がない人はそのように反応したりしないかも知れません。

 

又は、何かしらの用事を行っていた時でさえ、

それを邪魔されたり、遮られたりしたとしても、

 

その時、

《自分がどう対応すれば》、

ヤハウェが喜んで下さるのか》、

《その機会が与えられた》、と、

考えて、逆に喜ぶことが出来るかも知れません。

 

更に、人がした悪を心に留めない、恨まない、根に持たない、

出来るなら、忘れてあげられるなら、一番ベストです。

それも、ヤハウェは宝として

記憶して下さる、と考えましょう。

 

6節を見ると、

 

(新改訳2017)

「不正を喜ばずに、真理を喜びます。」

 

(口語訳)

「不義を喜ばないで真理を喜ぶ。」

 

(新共同訳)

「不義を喜ばず、真実を喜ぶ。」

 

となっています。

 

ここで、不義、不正、と訳されているギリシャ語は、

悪魔がこの体制で考え出した全ての悪事です。

《人の生活を壊すもの全て》。

性の不道徳(ポルネイア)、

冷酷さ、残虐さ、残酷さ、暴力、

詐欺、搾取、

魔術的なもの、悪霊と交信する行為、占い、呪い(まじない)、

心霊術、

貪欲、

依存性(*ギャンブル、アルコール、

タバコ、違法薬物、マリファナ等、その他の依存性、)

或いは、以前、抱いていた信念や何かしらの価値観、

または、自分独自の思考なども、

 

《真理と相いれない》と

《気づいた場合》は、

きっぱりと切り捨てる事が出来るでしょうか?

ということも関係してくるかも知れません。

 

そして、7節を見ると、

 

(新改訳2017)

「すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。」

 

(口語訳)

「そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。」

 

(新共同訳)

「すべてを忍び、すべてを望み、すべてに耐える。」

 

となっています。

 

ヤハウェの義の為に、

進んで忍び、

耐え、

ある意味、苦しむことをいといません、と言える人が、

この世界でどれだけおられるでしょうか?

 

又、どれだけ辛い事であったとしても、

明らかに、自分に矯正が必要だと悟った場合、

忍んで、それを心よく受け入れる事が出来るでしょうか?

 

そして、聖書の正確な知識に関して、

どこまで信頼し、信仰を働かせているでしょうか?

現在、聖書の全ての解釈が公開されていなかったとしても、

相応しい時に明らかにされる、ということを信じておられるでしょうか?

そして、聖書はヤハウェの御言葉であり、

今日、誰を用いているかに関して、《理性的に》、判断出来ているでしょうか?

 

皆様は、ヤハウェが約束された全てのことに希望を置いておられるでしょうか?

 

その為に、

今後、自分にとって一番辛いことが生じても、

それを、《忍耐を培う絶好の機会》と考え、受け入れる、そのような認識を抱けるでしょうか?

 

今回は、

コリント人への手紙第一13章から、特に「愛」について考えてみましたが、

 

又機会がありましたら、 

ヤハウェのみ旨】《保存版》として、

当ブログから更新出来たらと思います。

 

 

✍️

それで、今回考えたように、

このような愛を示す場合、

 

🖌️

※まずは、そのように対応出来るよう、

ヤハウェに熱烈に《霊の助け》を求め、

《識別力、洞察力、知恵》を働かせることが出来るように、ヤハウェに熱烈に祈る事が出来ます。

 

🖌️

※そのように対応出来た時に、

ヤハウェが、どんなに喜んで下さるかを、思い巡らせてみて下さい。

 

🖌️

※又、144000人級であるならば、

聖霊の力を過小評価しないようにして下さい。

自分の不完全な思考の中で、

無理、と決めつけてしまうのではなく、

我々は、聖霊によっても、

新たに日々、変革されてゆく事を忘れないように、この賜物に関して、ヤハウェに感謝しましょう。

 

🖌️

※更に、yahweh-ksrg's blog様の記事でも話されましたが、

イエス・キリストのある能力の助けもある事を思い出して下さい。

(※この事に関する詳細は、後日、

yahweh-ksrg's blog様の方から更新される予定です。)

 

我々はたった一人で努力しているわけではないのです。

 

 

今回は、愛について考えましたが、

自分が思っているより、

今のこの時期は、

愛を培いやすい時期と言えるでしょう。

是非、ヤハウェに喜ばれる者へと、共に成長して行きましょう。

 

🖌️🖌️

とはいえ、今は対処しにくい困難な時代である事には違いありません。

自己防衛としての危機管理は、

事前に、しっかりと想定しておかなければならない、というのはいうまでもありません。

又、何かしらの事で、

政府が機能しなくなってしまった場合の危機管理も、

しっかりと想定しておき、

自分で出来る事前策はしっかりと行っておきましょう。

その上で、マタイによる福音書6章13節のプレイヤーも忘れずに。

 

(※因みに、yahweh-ksrg's blog様からお聞きした事ですが、大きな苦難に入る前の危機管理として、かなりの方々が、

コンパクトな固定スライドガスガンを購入しておられる、と聞きました。

これは、所持している目線からお伝えすると、確かに、操作は簡単ですし、威力も、相手を怯ませるには十分で、自己防衛の幅が確かに広がることでしょう。

だからと言って、今から購入して下さい、という意味ではありませんので、誤解のないように。)

 

YouTubeから聖書の正確な知識を学びたい方は、

From KSRG様のYouTubeチャンネルから学べます。

https://youtube.com/@fromksrg8450

 

ブログからは、最新の聖書の解釈が更新されています。

https://yahweh-ksrg.hatenablog.jp/about