144000人の奥義「補足情報」(12)《あなたはこの世のものを本当に愛していませんか?》

最初に、現在この国内においても、

いつ、ライフラインがストップしてもおかしくない情勢になっています。

何も起こらなければいいですが、仮に、

もし、大きな苦難までにインフラがストップしてしまうような情勢になれば、その時には

大きな苦難用に実践してきた

備蓄(45日想定)

を用いる事が出来るでしょう。

大きな苦難に入った後の事は、

何も心配しなくても、 

ヤハウェが、必要なものは備えて下さる事でしょう。

(イザヤ書65章13節

詩編91編 参照)

 

 

さて、

今回は、

一人の人物に注目し、

今後の教訓を学んでゆけたらと思います。

 

その人物とはデマスです。

 

デマスはかつては、

パウロと共に活動していた

元 群れの監督者です。

 

デマスは、

パウロがローマで最初に投獄されていた間、

パウロと共にローマにおり、

最初はヤハウェに忠実だった、

当時の144000人級で、

先程も述べましたが、

群れの監督者でした。

その事は、

コロサイの信徒への手紙4章14節を見ると、

当時の群れの監督者であったルカと共に、こう書かれています。

 

「愛する医者ルカと《デマス》も、

あなたがたによろしくと言っています。」

 

更に、フィレモンへの手紙24節でも、

当時の群れの監督者の中に、

デマスがいた事が、次のように書かれてあります。

 

「わたしの協力者(※別訳 「監督者」)たち、

マルコ、アリスタルコ、

《デマス》、ルカ からもよろしくとのことです。」

 

とある通りです。

 

では、そのようなデマスが、なぜ、

悪魔の側にそれて行ったのでしょうか?

 

西暦65年頃、パウロがテモテにあてた最後の手紙の中で次のように述べています。

 

テモテへの手紙 二 4章10節で、

 

「《デマス》は《この世を愛し》、

わたしを見捨ててテサロニケに行ってしまい、、」

 

ここを見ると、「《デマス》は、

《この世を愛し》、わたしを見捨てて、」

とあります。

 

 

時は西暦65年頃、イエス・キリストが、

「憎むべき破壊者」

(新共同訳)

「荒らす憎むべき者」

(口語訳)

「荒らす忌まわしい者」

(新改訳2017)

が、

「聖なる場所に立つ」のを見たなら?

という時期が差し迫っていました。

 

しかし、それでもデマスからすれば、

エスが昇天されてから32年以上経過していましたし、

同労者のパウロは投獄を繰り返していて、

もしかしたら、このまま処刑され るかも知れない、或いは、

自分も?

中には復活の希望はない、との噂も広まっていました。

 

本当にこんな事をしていてもいいのだろうか?

 

勿論、世間では、

以前の知り合いたちは、

物質的に繁栄し、ある者は成功している者もいる、

又、当時は、快楽的な要素で溢れかえっていました。

デマスは相当悩んだかも知れません。

このままでいいのだろうか?

 

そしてとうとう、

当時の体制の中で、

より安全な場所を求めるようになり、

悪魔が支配する体制の中で、

つまり、当時の体制のやり方で、

自分の命を守ろうとした、

または、

自分の居場所を守ろうとした、という事です。

そして、パウロを見捨てて、結果、当時の144000人級から脱落してしまった、という事でしょう。

 

この事から、私たちは、

どのような教訓を学ぶ事が出来るでしょうか?

 

ヨハネの黙示録の預言の、

「千二百六十日」

「四十二ヶ月」

は経過してしまったのではないか?

 

主人が遅れているではないか?

 

本当にこのままでいいのだろうか?

 

この悪魔の体制に合わせて、

将来の自分を守れるようにした方がいいのではないだろうか?

 

ぺトロの手紙 二 3章3、4節

(新共同訳)

「まず、次のことを知っていなさい。

終わりの時には、

欲望の赴くままに生活してあざける者たちが現れ、

あざけって、こう言います。

『主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。

父たちが死んでこのかた、

世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか。』」

この聖句を今日にあてはめるなら、

「2022年が過ぎたのに、主は来ていないではないか?

終わる、終わる、といいながら、

情勢は何も変わらないではないか?

本当に大きな苦難、ハルマゲドンは来るのだろうか?

このまま、我々も歳を重ねてゆき、もしかしたら、

我々が生きている世代には、終わりは来ないのではないだろうか?」

 

この記事を読んでおられる皆様はどう思われるでしょうか?

 

 

では、もう少し掘り下げて考えてみましょう。

テモテの聖句では、

デマスは、

「この世を《愛し》」と書かれてあります。

 

ここで、

「愛し」

と訳されているギリシャ語は、

アガペーの特殊な変化形が使われており、

 

「傾倒」という意味合いも含んだ語です。

ただ、日本語の「傾倒」とは

少しニュアンスが異なります。

「ある物事に心を奪われ、我を忘れる。

本来、行わなければならない事は承知しつつも、

単なる責任感で行っているだけで、心の深いところでは違う事が思考を支配している状態。

要するに、いつもある事が頭から離れない状態。」

 

などの意味合いを含んだ「愛」です。

 

デマスは悪魔の世が提供している何かしらの事柄に、

ある意味、心を奪われていた、ということです。

 

周りがどうであろうが、

ヤハウェイエス・キリストへの感謝や愛、

更に、ヤハウェへの愛着、信頼、

信仰、信心、忠実、忠誠心、忠節、敬虔さ、崇敬の念、畏敬の念、

専心、敬虔な恐れ(畏れ)などで、自分の心や思いが、ヤハウェに傾倒しているなら、

繰り返しますが、周りがどうあろうが、霊的に弱くなってしまう事はないかも知れませんが、

悪魔の世の何かしらに、先程説明したような「愛」で、自分の思考を支配させてしまっていたとしたらどうでしょうか?

ヤハウェの関心事は、ある意味、

二の次になってしまいます。

 

この記事を読んでおられる方々の中で、そのような状態でない方々は、何の事を言っているのか、よく分からないかも知れません。

 

しかし、

気をつけないと、悪魔は巧妙です。

 

それが物であれなんであれ、

実際に、それがないと生きていてもつまらない、

楽しくない、

苦痛、

やってられない、

ヤハウェの関心事を生活の優先順位の一番上に持ってきて、それを保つのは、

口で言うほど、簡単な事ではないかも知れません。

しかし、今後は、その精神性が試される時期に入っている、とだけ、

今回は述べさせて頂きます。

 

それと、次の点も、警戒していないと、例えばですが、

 

当ブログや

yahweh-ksrg's blog様や

YouTubeチャンネル From KSRG様の方から推奨されている

「5つの事」

でも、気をつけないと、

例えば、

《セキュリティ》

《備蓄》

武装

などが

《神になってしまう》という事も往々にしてあるでしょう。

 

いつもセキュリティの事が頭から離れない。

いつも備蓄の事が頭から離れない。

いつも武装の事が頭から離れない。

 

このように、何かしらの物欲が思考を支配していたとしたらどうでしょうか?

それらのものが、神になっているといえないでしょうか?

 

そうなると、更に、

「貪欲」という罠も関係してくるでしょう。

 

聖書でいう「貪欲」とはなんでしょうか?

 

ギリシャ語のエピテュメオーという語には、

 

「過度の、飽くことのない欲望、

あるいは、願い続ける、という意味があります。」

 

更に、コロサイ人への手紙3章5節で、

偶像礼拝と同一視されている

「貪欲」

ここで用いられている

プレオネクシアというギリシャ語は、

字義的には、

「より多く持ちたい欲望」を意味し、

金銭に対する愛、

利得に対する欲望、

性的な欲望、

過度の承認欲求、など、

その他、ある物質的な物をしきりに欲しがる事に現れたりします。

 

つまり、聖書がいう貪欲とは、

「何かしらの明白な行動に現れて、その人の間違った《過度の欲望》を《あらわ》にし、

《自分の望むものを》、

ヤハウェの関心事より優先》させて、ある意味、

それが《自分の神》になっている事に全く《気づいていない状態》」

 

これが、聖書でいう「貪欲」です。

 

ヤハウェはこの世をバランスよく用いる事を望んでおられます。

しかし悪魔は、この世にあるものに傾倒させて、仮選別者を脱落させようとしています。

 

それが救済策である「5つの事」であったとしても、最後の5番目の、

高次元とのコミュニケーション以外は、

そのような点で注意が必要だと言うことです。

 

究極的には、

テモテへの手紙6章6、7節

 

「もっとも、信心は、

満ち足りることを知る者には、

大きな利得の道です。

なぜならば、

わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、

世を去るときは何も持って行くことができないからです。」

 

と書かれてある通りです。

 

 

皆様はどうでしょうか?

 

皆様は、ヤハウェへの愛、という点で、どれだけ自己分析されておられるでしょうか?

 

今後は、ヤハウェへの愛が、様々な点で試されるでしょう。

今こそ原点を見つめ直してみる時かも知れません。

 

単に、大きな苦難、ハルマゲドンを生き残りたいから?

助かりたいから?

牧者になりたいから?

天に行きたいから?

 

などのそのような動機だけでは、

恐らく、最後まで耐え忍ぶことは難しいでしょう。

 

 

 

勿論、

皆様には自由意思が与えられています。

この記事を読まれて、何か心当たりがあって、それを調整されるのも、そうしないのも、皆様次第、という事です。

ただ、

yahweh-ksrg's blog様は、

今こそ、次のパウロが述べたのと同じ決意を抱くべき、

と言われました。

全く同感です。

 

ローマの信徒への手紙13章11~14節

 

「更に、

あなたがたは 今がどんな時であるかを知っています。

あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。

今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、

救いは近づいているからです。

夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて

光の武具を身に着けましょう。

日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。

酒宴と酩酊、淫乱と好色、

争いとねたみを捨て、

イエス・キリストを身にまといなさい。

欲望を満足させようとして、

肉に心を用いてはなりません。」

 

と書かれてある通りです。

 

最後に、

詩編27編10節

 

(新共同訳)

「父母はわたしを見捨てようとも

主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます。」

 

(口語訳)

「たとい父母がわたしを捨てても、

主がわたしを迎えられるでしょう。」

 

(新改訳2017)

「私の父 私の母が

私を見捨てるときは

主が私を取り上げてくださいます。」

 

皆様は、この聖句から何を感じられたでしょうか?

最後の望みの綱は、

結局ヤハウェではないでしょうか。

今後も、皆様が、ヤハウェとの個人的な関係を維持し、保ち、更に、深めて頂けたら幸いです。

 

 

次回は、【144000人の奥義】(9)

《別解釈》「主人が旅に出た本当の意味とは?」

を更新予定です。

 

 

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