【144000人の奥義】(4)「主人は、、そばに来て給仕してくれる」

いつも喜びを保ちながら、

ヤハウェに仕えている全ての方々へ

引き続きヤハウェからの保護と祝福が、皆様の上にありますように。

 

では、

今回も、144000人の奥義として、

ルカによる福音書12章の、前回の続きです。

 

まず、前回考えましたが、

「ともし火」は、何を表していたでしょうか。

 

🖊️🖊️

*この「ともし火」は、主人の足下を照らす為のものではなく、

《僕》が、主人に、

「自分が誰なのかを分かって頂く為のもの」でした。

 

「《自分が誰なのか》を分かって頂く為のもの」という事です。

 

*ただし、僕の《動機》は、あくまでも、主人の為に、というものです。

 

つまり、《主人の為》に《ある事》を行う?

もっというなら、《主人の関心事》に《敏感》であるか?

という事です。

例えば、メッセンジャーを行っている方は、

自分の更新する《記事》を、

《主人が喜んで下さっているか》に、《敏感》である、という事です。

 

この点は又、次回詳しく解説したいと思います。

 

*それでも主人からすると、《誰》が指示通りにしていたのか?

という意味において、結果的には、

「ともし火」は《僕が誰なのか》を分かって頂く為のもの、という事です。

 

 

 

当然、「ともし火」に灯されるのは、「僕の《表情》衣の《状態》」

 

「僕の《表情》衣の《状態》」

ここからも色々黙想出来るでしょう。

 

そして、

エスは同じ事を二度言われました。

 

「《目を覚ましている》のを

《見られる僕たち》は幸いだ。」

と。

 

*どのように、目を覚ましているべきかは、前回考えましたが、

エスは、この譬(たとえ)で、

僕が《何人》いるのか?

には言及していません。

 

*これも前回触れましたが、

暗に「遅れる」事を示唆しています。

「遅れる」??

 

 

*そして、僕たちは、「十分な油」を用意していないといけない、という事です。

 

*「真夜中」になり、もしかすると、

「夜明け」近くになるかも知れません。

 

☆この譬(たとえ)を、終末の期間に置き換えてみて下さい。

《遅れてから》、

 

「真夜中」とは?

「夜明け」とは?

 

それで、

恐らく、僕たちは、暗闇の部屋の中で、

じっとしていると、眠気を催すかも知れないので、

主人が到着する前に、既に、

「ともし火」に火をともす僕もいるかも知れません。

 

*つまり、僕たちは、いつでも、

可能なら、主人が到着するまでずっと、

「ともし火」をともす為に、

《十分な油》を用意していないといけない、という事になります。

 

興味深いのは、

ルカによる福音書12章25節からを見ると、

 

「腰に帯を締め、

ともし火を《ともしていなさい。》主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、《すぐに》開けようと

《待っている人のようにしていなさい。》」

と書かれてあるのです。

 

《ともしていなさい。》

《すぐに》

《待っている人のようにしていなさい。》

 

 

*という事は、出来るなら、僕たちは、

主人が帰ってくるまで、

「ともし火」を、《ともし続け》ていないといけない、という事になります。

 

 

*では、ここで言う「ともし火」

そして、

「油」が何を表しているのか?

という事ですが、その点に関しましては次回、解説したいと思います。

 

 

🖌️🖌️🖌️✍️

そして、今回言えることとして、

《油》を十分用意して、

「ともし火」をともす事の出来る僕が、「幸い」という事は、

《そう出来ない僕もいる》、という事を、

暗に示唆しています。

 

《そう出来ない僕もいる?》

 

*つまり、144000人級の中から、

もしかしたら《脱落者》が現れるかも知れません。

 

つまり、これが、

コリント第一の手紙 3章15節の、

 

「、、《火の中をくぐって来た者》のようにではあるが、救われる、、」

という事です。

 

「、、火の中をくぐってきた者」

という表現から、何を思い浮かべる事が出来るでしょうか?

 

 

そうです。

大きな苦難の《前に》、

そのような者は、果たして、

《上げられる? のでしょうか》

という事です。

 

よく考えてみて下さい。

 

それでも、完全に《選別》から外れたわけではないので、

何とか大きな苦難を乗りきって、

(*ある意味 「火の中」と言えるかも知れません)

ヤハウェに全幅の信頼》を寄せて最後まで《耐え忍ぶ》必要があるでしょう。

勿論、その時には 、

聖霊もみ使いたち》も、

《後ろ楯》となってくれるでしょう。

 

 

ただし、《悪い僕》になってしまった者は、自分の救いも?

 

*この点に関しても、イエスの語られた別の譬(たとえ)から、

後日、出来るだけ詳しくお伝え出来たらと思います。

 

☆では、144000人級から、脱落者が現れた場合、誰が、144000人級を補う者として召されるのでしょうか?

 

ガラテヤの信徒への手紙3章26~29節には、次のように書かれてあります。

 

「あなたがたは《皆》、《信仰》により、

《キリスト・イエスに結ばれて》

《神の子》なのです。

洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、

《キリストを着ている》からです。

そこではもはや、

ユダヤ人もギリシア人もなく、

奴隷も自由な身分の者もなく、

男も女もありません。

あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。

あなたがたは、

《もし キリストのもの》だとするなら、

とりもなおさず、

アブラハムの子孫》であり、

《約束による相続人》です。」

 

と書かれてある通りです。

 

つまり、

ヤハウェからしたら、

144000人級だけではなく、

その他の仮選別者も、

《皆》が、《信仰》によって、

《キリスト・イエスに結ばれて》いるなら、

《神の子》であり、

《キリストを着て》

《もし キリストのもの》であるなら、

アブラハムの子孫》

《約束による相続人》なのです。

 

☆ある意味、そのような方々は、

高次元側からすると、注目に値する方々と言えるかも知れません。

今、聖霊による証印が押されているわけではないのに、《信仰》によって、

《キリストに結ばれて》いて、

《キリストを着て》

《キリストのもの》となっているからです。

(*勿論、144000人級以外の仮選別者の方々も、ヤハウェの後ろ楯があるのはいうまでもありません)

 

 

ですから、それまで《天的な希望》ではなかったとしても、

ヤハウェが、《恵み》により、

天に召して下さる、という事です。

自分が現在、天的な希望を抱いていなくても、

召された時に、

天的な希望を《抱く》ようになり、《感謝の念》にあふれる事でしょう。

 

 

*勿論、その時にならないと、誰が144000人級に加わるかは分かりません。

全てヤハウェ次第だという事です。

 

そして脱落してしまった者たちに関しては、

《144000人級》として《脱落》してしまうだけならともかく、

自分の《救い》まで、

つまり、最後まで永遠の賞を獲得する為の走路を走り続ける事が出来なかった者たちの《結末》はどうなのでしょうか?

 

ヘブライ人への手紙6章4~6節にはこう書かれてあります。

 

「一度光に照らされ、

天からの賜物を味わい、

聖霊にあずかるようになり、

神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、

(*口語訳 新改訳では

「来るべき世の力を味わいながら」と訳されています。

今でさえ、

ヤハウェからの保護や祝福という仕方で、来るべき世の力の一部ですが、味わい知る事が出来ています。)

 

その後に脱落した者の場合には、

再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。

神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです。」

と書かれてある通りです。

 

更に、

ヘブライ人への手紙10章26~29節には、このようにも書かれてあります。

 

「もし、わたしたちが真理の知識を受けた後にも、

故意に罪を犯し続けるとすれば、

罪の為のいけにえは、

もはや残っていません。

ただ残っているのは、

審判と敵対する者たちを焼き尽くす激しい火とを、

恐れつつ待つことだけです。

モーセの律法を破る者は、

二、三人の証言に基づいて、

情け容赦なく死刑に処せられます。まして、神の子を足げにし、

自分が聖なる者とされた契約の血を汚れたものと見なし、

その上、恵みの霊を侮辱する者は、どれほど重い刑罰に値すると思いますか。」

とも書かれてあるのです。

 

🖌️🖌️

☆勿論、ヤハウェはその人の

《限界》をご存じですし、

《出来る以上の事》は要求されません。

 

《限界》をご存じ。

《出来る以上の事》は要求されない。

 

🖌️🖌️

(*今後も、yahweh-ksrg's blog様の方から更新される

「群れの監督者」についての詳しい解説が続くと思いますが、

群れの監督者は《別》です

群れの監督者の基準は、144000人級の基準より更に高いゆえ、

『自分の限界?』などの言い訳は全く通用しません。

ルカによる福音書12章48節にあるように、

「多く任せられた者からは、

《更に多く要求される》のである」 と書かれてある通りです。

 

*ただし、「群れの監督者」として任命されていなくても、その基準に到達するよう個人的に努力するなら、

ヤハウェを喜ばせ、悪魔をガッカリさせる事になります。

そのような努力は、ガラテヤの信徒への手紙6章7、8節の

〝蒔いたものを刈り取る〟という法則により、必然的に、天に宝を積む事になります。

 

*因みに、「群れの監督者」と

大きな苦難時に任命される「牧者」は同一のものではありません。)

 

*しかし、明らかに、ヤハウェから見て、《怠慢》、《怠惰》などの理由で、

《忌まわしい事》を、《故意》に行い続けるならどうでしょうか。

《故意》というのは、ヤハウェから見て《明らかに忌まわしい事》だと

《理解》しているにも関わらず、

という事です。

 

 

*それで、

もし、今まで《思い違い》ゆえに、

つまり、《無知》ゆえに、

ヤハウェの144000人級に対する基準を《誤解》していた方々がおられましたら、

《心からの悔い改め》と、

ヤハウェへの改心の祈り》

そして、今後は、

《忌まわしい罪を繰り返さない》なら、

《キリストの流された血》により、

つまり、

《キリストの贖いの犠牲》により

《赦されます》ので、

ご安心して下さったらと思います。

 

 

🖌️🖌️

☆さて、主人が言われるようにしていた僕たちは、何と《幸い》なのでしょう。

 

「主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」のです。

 

どういう意味でしょうか?

 

これを知る手掛かりとして、

 

次のパウロの言葉を思い起こす事が、出来るかも知れません。

まず、

テモテへの手紙 第二4章7、8節

 

「わたしは《戦い》を

《りっぱに戦いぬき》、

《走るべき行程》を

《走りつくし》、

《信仰》を《守りとおし》た。

今や、《義の冠》がわたしを

《待っているばかり》である。

《かの日》には、

公平な審判者である主が、

《それ》を授けて下さるであろう。

わたし《ばかりではなく》、

《主の出現》を《心から》待ち望んでいた

《すべての人》にも授けて下さるであろう。」

と書かれてあります。

 

このパウロの言葉は《預言》です。

そのように言える根拠は、

 

*この手紙を書いた時点

(西暦65年頃)では、まだパウロは処刑されておらず、

最後まで忠誠を保つかどうかは、

まだ分かりませんでした。

 

*聖句を見ると、

「かの日には」と言うワードと、

「主の出現」と言うワードから、

明らかに、《将来》、つまり、

「今の終末の期間」を生き抜いた者たちへのメッセージだと言う事は、普通に読み取る事ができます。

 

 

🖌️🖌️🖌️✍️

☆つまり、主人が腰に帯を締め、

僕たちに給仕をしてくれる、と言うのは、

144000人《一人びとり》に、

《主人自ら》が、《義の冠》を被せて下さる、という事です。

神の国、御国の王座に就く《用意》を

《共に行って下さる》、という事です。

 

しかし、

初めて、そのような座につかせて頂けるわけですので、

中には戸惑う者たちもいるかも知れませんが、

《主人自ら》が、御座そのものへ入る為の《全ての用意》を

《共に行って下さる》事を想像してみて下さい。

 

そして、《小羊と同じ共同支配者》としての立場に就く、という事です。

その時何を経験する事になるのかは、その時が来たら分かるでしょう。

 

その後も、主人の主導のもとで、

 

御座そのものへ。

 

🖌️🖌️🖌️✍️

*更に、今度は、御座そのものへ招待された後です。

いよいよヤハウェからのプレゼントです。

 

エフェソの信徒への手紙1章18、19節を見ると、

我々の想像を遥かに上回る報いについて書かれてあります。

抜粋して簡潔に説明すると、

 

1️⃣

天への召し、御座そのものへ招待された時に差し伸べられるであろう希望、

それも《永続的に与えられる》希望を知った時に、

驚きと感動で、圧倒されるに違いありません。

*今の不完全な思考では想像する事すら出来ないでしょう。

 

2️⃣

更に、神の国を受け継ぐ、という144000人《全体としての相続財産》と、《個人的に与えられる高次元の財産》、

ヤハウェが何を用意して下さっているのか、その時に知る事になるでしょうが、

それを目の当たりにした時に度肝を抜かれる事でしょう。

特に、《個人的に与えられる財産》は、他の者たちには分からない仕方で、ヤハウェから個人的に与えられるものです。

 

☆嬉しい事に、こちらの財産に関しましては、《今の生き方》が直接関係しているものです。

ヤハウェが望まれる事》を行ったり、

ヤハウェに喜んで頂く》事により、《天に積み上げられた財産》です。

この事を《知っている》だけでも、

今の対処しにくい時代を生き抜く上で、とても励みになるに違いありません。

 

3️⃣

そして、ヤハウェの絶大なパワーです。

それを我々にまず

《示して下さる》、

つまり、《経験》させて下さる、という事です。

この絶大なパワーを、マックス経験する、という事ですが、

 

セラフィムたちやケルビムたちでさえ、経験した事のないものです。

本来なら、まともに経験したら、

命の存在すら危ういものですが、

144000人は、《不朽》《不滅》の体が与えられているので、耐えられる、という事です。

 

*パワーを経験させて下さる、といっても余りピンとこないかも知れませんが、

例えば、この三次元物質宇宙を構成している、

時間、空間、物質、エネルギーなどは、全て《強力なパワー》によって《制御》されています。

勿論、《高次元》も。

 

しかし、144000人が経験するであろうパワーはそれらよりも

《遥かに絶大なもの》です。

セラフィムやケルビムたちも知らない、

御座そのものとは、

又《別のところ》へと招待され、更に、、、という事です。

これはその時経験しないと、文字で説明することは不可能です。

 

ただし、ヤハウェは見せびらかせて終わり、という方ではありません。

その絶大なパワーを144000人に

《付与》して下さる、という事です。

 

なんと言う報いでしょう。

☆これらの詳細に関しましては、

又後日、書ける範囲で記事にしたいと考えています。

 

では、これらの素晴らしい希望や報いを思い巡らして下さい。

何故、ヤハウェは144000人級に、

このような素晴らしい報いを用意して下さっているのでしょうか?

 

 

*何故なら、144000人は、

小羊の行くところへは、

《どこへでもついて来た者たち》です。

《どこへでも?》

(マタイ16章24節 参照)

144000人は、

イエス・キリストの足跡にずっと従ってきた者たちです。

 

[補足情報 

イエス・キリストの行われた事は、福音書にある程度記されていますが、そのイエスでさえ、

人々から罵られ、嘲笑され、殆どのユダヤ人が、

エスをキリストと認めず、

エスの語られた旧約聖書の預言の解釈を信じませんでした。

その結果、約110万人のユダヤ人が虐殺され、

約9万7千人が捕虜として連れて行かれ、大半が処刑されました。

それを考えると、

今日、我々のメッセージを、

大半の人々が聞かないのは当然であり、

それで我々が過度に悲観的になることはないでしょう。

パウロは自身の手紙の中で、

「いつも喜んでいなさい」と書いているからです。

勿論、イエスも、

マタイ5章11、12節で、

「わたしのために ののしられ、、、身に覚えのないことで あらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。

喜びなさい、大いに喜びなさい。

天には大きな報いがある。」

と言われました。

「小羊の行くところへは どこへでもついて来た者たち」は、

今その事も重々理解した上で、

キリストの足跡に、喜んで従って来たはずです。]

 

 

*又、ルカによる福音書21章19節に書かれてあるように、

「忍耐によって、自分の魂を

《獲得》した者たちです」

 

*そして、

マタイによる福音書24章13節にあるように、

「最後まで耐え忍」んだ者たちです。

 

更に、《数々の勝利》を勝ち得た者たちです。

 

☆それでも、この天への召しに伴った数々の報いは、

ヤハウェからの恵みによる、という事を忘れるべきではないでしょう。

 

当然、勝利を勝ち得た事に関しても、

ヤハウェの後ろ楯があったから勝利出来たのであって、あたかも、

144000人一人びとりが、

個人的な努力だけで、

天への召しを獲得したかのように、

錯覚すべきではありません。

 

あくまでも、

ヤハウェからの類いまれな、ご親切ゆえである、

という事も忘れるべきではないでしょう。

 

 

セラフィムやケルビムより、

高次の領域に入る事が許されるのです。

これ以上の特権があるでしょうか?

 

✍️

確かに、144000人は、

これまでの人生を通して、

悪魔の世で、相当酷い仕打ちを受けてきた方々も中にはおられるかも知れません。

しかし、過去は過去です。

いずれにしても変える事は出来ません。

パウロはこう述べています。

ピリピ人への手紙3章13~15節

 

「、、すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、

目標を目ざして走り、

キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。

だから、わたしたちの中で全き人たちは、そのように考えるべきである。」

と書かれてある通りです。

 

*ある意味、辛い経験などは、

忘れる事が出来たら忘れた方が気が楽になるものもあるでしょう。

*もし中々忘れる事が難しいと感じるなら、

その旨をヤハウェに打ち明け、

忘れさせて頂く事も出来ます。

それから《報いを一心に見つめる》のです。

やがてヤハウェの《霊》により、

聖霊》により、キリスト・イエスの平和が、皆様の心と思いとを守って下さる事でしょう。

 

《報いを一心に見つめる》という事です。

 

 

では、話を戻しますが、

エスが語られた譬(たとえ)に注意を払うべきなのは、

当然ではないでしょうか?

 

そうなってくると、

「ともし火」が何を表しているのかが気になってくる事でしょう。

「油」は?

 

その点に関しましては、

次回、

エスが語られた別の譬(たとえ)と共に考察してゆきたいと思います。

 

今回の記事で、少しでも、霊的な益を得られた、と思われる方々は、

ヤハウェに感謝の気持ちをお伝えして頂ければと思います。

 

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