【144000人の奥義】(2)「小さな群れよ」
御子イエス・キリストを通し、讚美、栄光が、唯一まことの神ヤハウェに、帰せられますように。
本日、記事を更新出来ました事を、まず、ヤハウェに感謝したいと思います。
そして、皆様の心からのプレイヤーにも感謝したいと思います。
今回は、ルカによる福音書12章から、
144000人の奥義に迫ってゆきたいと思います。
まず、32~38節には、次のように書かれてあります。
「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。
自分の持ち物を売り払って施しなさい。
擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。
そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。
あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。
腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。
主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、
すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。
主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。
はっきり言っておくが、
主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。
主人が真夜中に帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。」
と書かれてあります。
かなり、意味深な譬(たとえ)となっています。
それで、ここでは、幾つかのワードに注目する事が出来ます。
まずは、
☆「小さな群れ」です。
これは、誰の事をあらわしているのでしょうか?
答えは、144000人です。
確かに、現在の世界人口から考えるなら、かなり少ない数です。
80億近い(本当はもっと多い)人口の中の、たった
144000人です。
それで皆さん、
もし、自分が144000人として召されているとしたら?
と、あらためて、祈りのうちに考えてみて下さい。
#ヤハウェに対して、どのような感情が、こみ上がってくるでしょうか。
☆さて、イエスは、
「小さな群れ」に対して、まず
「恐れるな」と言っています。
どういう意味でしょうか?
その点に関して、パウロはこう述べています。
テモテへの手紙 二 1章7節
「神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。」
と書かれてある通りです。
因みに、口語訳と新改訳は、
「力と愛と慎みの霊」
と訳されています。
*つまり、聖霊による証印を押されている、144000人級は、
まず、恐れる要素は何もない、という事を心に明記しておくとよいかも知れません。
何故ならば、
「力」
「愛」
「思慮分別」(慎み)
の霊を頂いているからです。
実は、これら、
「力」「愛」「思慮分別(慎み)」は、密接に関連しており、どれかが欠けていたり、どれかが飛び抜けている、というようなものではありません。
今回は、余り具体的には説明致しませんが、
簡単に説明すると、
*144000人級は、そのように本心から願うなら、
大胆かつ勇気をもって、愛、そして、思慮分別、或いは、慎みという特質を、他の仮選別者たちより、培いやすい、という事です。
そして、
本来なら、この聖霊に逆らわない限り、
*自分を喜ばせるより、ヤハウェを喜ばせたい。
*自分を愛するより、ヤハウェへの愛、愛着心、信頼感 等が増し加わってくるはずです。
*又、隣人
(ここでいう隣人とは、
仲間の144000人級、
そして、その他の仮選別者、
並びに、これから気づきがあられる方々全て《この中には、自分の家族様も含まれる事でしょう》)
が救われる為なら、愛、そして、
思慮分別を働かせ、慎みをもって、自分を役立たせたい、という気持ちが強まってくる、という事です。
何故ならば、
聖霊が、そうするよう、働きかけてくるからです。
勿論、全ての144000人級が、直ぐに、そのような精神状態になれる、という意味ではありません。
#個人差がありますので。
この聖霊に関しては、又、後日、
yahweh-ksrg's blog様の方から、
聖霊についての詳細を、記事にされるそうなので、楽しみに待ちましょう。
☆ただし、自分の国籍を、高次元に移されている方々なら、どうでしょうか?
ヤハウェは全ての諸問題を正されるわけです。
多少の気がかりな事はあるでしょうが、
この悪魔の世で、
人に何と思われようが、
(勿論、誤解しないで頂きたいのは、極端になって、他の人を何かしらの事で、つまずかせても構わない、という意味ではありません。
あくまでも、道理を働かせつつ、
ヤハウェの喜ばれる事を行っている上での事です。つまり、いわれのない非難の事です。)
又、何をされようが
自分は、
ヤハウェを愛し、隣人を愛している事から、喜びを味わえるよう、
つまり、ヤハウェに喜ばれるような、新しい人格を培うよう、継続的に努力しているわけです。
使徒言行録 20章35節の、
「受けるより与える方が幸いである」
と書かれてある、真の幸福感、
*この幸福感は、外部からの出来事や影響力 等に全く左右されません。
経験された方ならご理解頂だけると思います。
ですから、
144000人として、仮選別されている方々は、本来なら、
「恐れ」とは無縁の状態、と言えるでしょう。
ヨハネも、
自分の手紙の第一 4章18節で、
この点に関して、次のように書いています。
「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。、、」
と書かれてある通りです。
ここで、「締め出す」と訳されているギリシャ語は、
「入ってくる余地なし、完全に排除、頭にさえよぎらない」
という意味があるそうですが、
*本当に、
ヤハウェ、そして、隣人への愛に、自分の思考が支配されるようにすれば、
悪魔から、又、人から何をされようが、ある意味、些細な事かも知れません。
「完全な愛は恐れを締め出します」
本当にその通りで、本当に励まされる言葉です。
次の聖句も、そのような心の状態を理解するのに助けになるかも知れません。
箴言16章3節です。
「あなたのわざを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画は堅く立つ。」
と書かれてあります。
興味深いのは、新改訳の脚注を見ると、
「ゆだねよ」
と訳されている部分の直訳は、
「転がせ」です。
どう解釈したらよいのでしょうか?
☆つまり、自分の業、行おうとしている生活上の全ての事を、
あたかも、ヤハウェのレールに、
自分という玉を転がせるように、
ヤハウェを信頼して、全てを委ねきる事が出来れば?
という事です。
つまり、ヤハウェの御旨に敵ったプレイヤーを行い、
後は、自分が行うべき、出来る可能な限りの努力です。
*そのように委ねきる事が出来れば、余計な心配事に、過度に悩まされる事はないでしょう。
この箴言16章3節の聖句に書いてあるように思えてくれば、しめたものですが、
最初は、そのように思えるようになるには、ある程度の時間が掛かるかも知れませんが、
落胆する事はありませんので、ご安心ください。
では、続く部分を見ていきましょう。
つまり、天と地における統治権を委ねて下さる、という事です。
この事は、
ヨハネの黙示録22章5節に書かれてある事と調和します。
「、、、神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである」
と書かれてある通りです。
☆これは、144000人全員が、意見を出し合って、
御座そのものから、
天と地を、どうすれば、今以上に、幸福に出来るだろうか?
などについて、話し合う特権が、144000人に委ねられる、という事です。
少し想像してみて下さい。
地上のみならず、天においてもです。
勿論、今でも、高次元は幸福でしょう。
しかし、ヤハウェは、御使いたちにも、更なる希望や報いを、永遠に渡って差しのべ続けられるわけです。
でも、それ以上に?
何と素晴らしい報いでしょう。
144000人に関するその他の報いについては、又、後日、あらためて記事にしたいと思いますが、言葉で表現するのが、本当に難しいくらいです。
では、続く部分を見てみましょう。
何と書かれてあるでしょうか?
☆「自分の持ち物を売り払って」
とあります。
これは当然、文字通りの意味ではありません。
現実的に、自分が大切にしていた何かしらの持ち物を売り払ったところで、一体、どれだけの人を救えるでしょうか?
この部分は、そのような意味ではなく、
いわゆる、これまでの人生で培ってきた自分特有の価値観や固定観念等の事です。
実際、思想家や哲学者などは、自分の思考は、ある意味、物質的な財産より大切なもの、とさえ言われているくらいです。
「自分の持ち物を売り払って」
というのは、そのような意味です。
そう考えると、
次のイエスの言葉も、同じように、理解する事が出来ます。
マタイによる福音書16章24節 前半で、
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、、、」
と書かれてあります。
#因みに、ある宗教団体では、この部分を極端に解釈して、自分の持ち物や財産や仕事まで捨てて、大変な目に遭われた方々もいます。
又、海外のあるカルト教団は、自分の命まで捨てるよう強要され、集団自殺まで行なった、という事件は有名な話です。
それで、繰り返しますが、
☆つまり、ここで
「持ち物を売り払」う、「捨てる」というのは、
これまでの人生で培ってきた自分特有の価値観や固定観念等、
あくまでも、これまで、自分が培ってきた、
ヤハウェのものさしにそわない、自分独自の思考の事です。
*つまり、高次元に国籍を移し、144000人として召して頂く、という事は、
ヤハウェを知らなかった故に培われてきた、過去の自分の考え、
勿論、今現在も、です。
何故なら、今もなお、ヤハウェに喜ばれるような思考へと、調整するよう、日々努力しているからです。
他の人の為に、自分の思考を、どこまで、調整する事が出来るか?
という事も関係してくるでしょう。
*ヤハウェの為、他の人の為に、
自分を、捨てる、というのは、そういう意味です。
ヤハウェの御座そのものに入れば、
過去の人間としての、どんな事も、もはや、とるに足りないものと、
言えるでしょう。
不完全な人間の思考では、想像するのは難しいかも知れませんが、
我々に差し伸べられている希望や報いは計り知れないものです。
イザヤ書65章17節には、次のように書かれてあります。
「見よ、わたしは新しい天と、新しい地とを創造する。
さきの事は覚えられることなく、心に思い起こすことはない。」
と書かれてある通りです。
我々の罪は、キリストの贖いの犠牲により、我々の過去の罪は、完全に赦され、過去の黒歴史は、いわゆる、
「覚えられることもなく」
「心に思い起こす」事も、もはやないでしょう。
☆又、この事も考えて頂きたいのですが、
悪魔の世が、まさに終わろうとしている、この終末の期間に、
天に、富(口語訳では「宝」)を積む(蓄える)事が出来るのは、なんという喜びでしょう。
天に積まれる富(宝)は、個人差があり、皆が同じ、という事ではありません。
それは、今の我々の生き方が、全て、報い、として刈り取られて、かえってくるからです。
だからと言って、144000人に、悪魔の世でいう、いわゆる上下関係のようなものはありませんが、
*今ここで書ける事は、
確かに、144000人に上下関係等はありません。
勿論、この世でいう差別的な要素もありません。
では
ここでいう、
天に積まれた富(宝)とは、一体
何なんでしょうか?
☆ここで、一つの法則として、
先程も触れましたが、
ガラテヤ6章7節にあるように、
「蒔いたものを刈り取る」
という法則があります。
つまり、どういう事かといいますと、
☆現在においても、
144000人級が、皆、同じように、ヤハウェに仕えているわけではありません。
なのに、144000人として、最終選別をされたら、皆同じ報いが与えられるのでしょうか?
先程のガラテヤの聖句は、どう解釈したらよいのでしょうか?
こう言う事です。
☆144000人として召され、御座そのものに入る事をゆるされた者たちの間で、上下関係やこの世的な差別等はありません。
ただし、
*個人としては、他の仲間には分からない仕方で、ヤハウェからの特別なプレゼントが用意されている、という事です。
あくまでもヤハウェとの個人的な関係において、
他の仲間には分からない仕方で、という事です。
これらの法則は、御座そのものに入っても、変わりません。
(その事を示す聖句は、又、後日、別の主題の記事で挙げたいと思います)
*勿論、そのような個人的な報いは、
「144000人全体」として与えられるであろう「希望や報い」とは、
当然「別のもの」です。
さて、今回の範囲はここまでですが、
皆様の中には、
「天に富(宝)を」積むには?
という事に関心を抱かれた方もおられるかも知れません。
勿論、ヤハウェのみ旨を行うなら、天に富(宝)を積む事は出来るでしょう。
しかし、それだけではありません。
それで、次回は、
「番外保存版」として、
【天に富(宝)を積む方法】
か、
【144000人の奥義】(3)
「目覚めているところを見られる僕たちは幸いだ」
という記事のどちらになるかは分かりませんが、
次回も楽しみにして頂けたらと思います。
本日も、記事を読んで下さりありがとう御座いました。
皆様に霊的な食物を与えて下さった、
ヤハウェに、感謝して頂ければと思います。