【144000人の奥義】(1)「家の僕たちとは?」

ヤハウェからの愛と平和が、全ての仮選別者の方々の上に、引き続き留まりますよう。

 

 

今回から、144000人についての奥義を、記事として、少しづつですが、

考察してゆきたいと思います。

さて、

YouTubeチャンネル From KSRG様の方で、過去に

【忠実な思慮深い僕】のシリーズが、公開されましたが、

運営側の方で、前置きもなく、削除された事は、知る人ぞ知る事ですが、

 

それで、この度、あらためて、復習も兼ねて、

☆忠実な思慮深い僕とは?

そして、

☆特に、今回は、

「その家の僕たちとは?」

その事にスポットを当て、

少し整理したいと思います。

 

まず、

「忠実な思慮深い僕」です。

新共同訳では、

「忠実で賢い僕」

新改訳では、

「忠実で賢いしもべ」

と、訳されています。

 

そして、「家の僕たち」です。

新共同訳では、

「家の使用人」

新改訳では、

「家のしもべたち」

と訳されています。

 

以前の解釈では、

「忠実な思慮深い僕」

メッセンジャー

(与える側の選別者)

牧者

144000人

と、解釈していたと思います。

 

間違いではありませんが、これだけだと、まだ説明が足りません。

 

この点に関しては、後日、書ける範囲で書いていこうと思います。

 

なぜなら、その点に関する、

yahweh-ksrg's blog様の方からの記事が、先に、更新される予定ですので、その後で、又、詳しく、補足的に、解説出来たらと思います。

 

では、次に、

「家の僕たち」から、考えてゆきたいと思いますが、

 

この「家の僕たち」は、

受ける側の選別者と言えるかも知れません。

又、その中には、

144000人以外の選別者も含まれる、

これが、最新の解釈です。

 

つまり、

受ける側の選別者の中にも、

144000人の正員がいる、

と言う事になります。

 

なぜなら、この譬(たとえ)を構成しているのは、

「主人」と「僕たち」だからです。

そして、

「家の僕たち」の上に、更に、僕たちの霊的な飢えを満たす為に、

「忠実な思慮深い僕」が任命されている、と言う事になります。

 

まず、この点をおさえて頂ければと思います。

 

 

さて、箴言19章17節

新共同訳では、次のように書かれてあります。

 

「弱者を憐れむ人は主に貸す人。その行いは必ず報いられる。」

と書かれてある通りです。

 

ヤハウェにとっては、

いわゆる、弱者と言われている人たちは、様々な意味で、大切な存在、だと言う事です。

 

更に、パウロも、

コリントの信徒への手紙12章の中で、

 

「、、、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです、、、神は見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました」と

書かれてある通りです。

 

なのに、

この終末の期間において、

Webと言う仕方で、行いたくても、メッセンジャーを行う事が出来ない、例えば、

 

☆体の不自由な方々や、

 

☆何かしらのハンディをおっている方々、

(中には、能力的なものも、関係しているかも知れません)

 

☆或いは、モバイル機器類等が、使えない境遇の方々等、

 

☆日々の生活だけでも、大変な境遇に置かれている方々等、

 

もし、ヤハウェの御名を呼び求めているにも関わらず、

そのような方々が、144000人として召されないなら、先程の箴言やコリントの聖句と調和しない事になります。

ヤハウェはそのような方ではありません。

 

又、この譬(たとえ)の中で、「僕」を構成しているのが、

 

「忠実な思慮深い僕」

「家の僕たち」

 

つまり、それが、144000人全体だったとしたら、

(勿論、補足的には、家の僕たちの中には、144000人以外の選別者はいますが、このシリーズでは、主に、144000人にスポットをあててますので、これから先は、144000人目線で、話を進めてゆきます。ご理解下さい)

 

「忠実な思慮深い僕」

「家の僕たち」

 

との間で、

一般にいう、上下関係等は一切存在しません。

 

又、

霊的な食物を、

「与える」側

 

そして、

 

「受ける」側

 

両方共に、

まず、誰から、その霊的な食物が、与えられるのか?

という事です。

 

源は、ヤハウェです。

 

という事は、

「与える」

「受ける」

という立場が違うだけで、

両方共に、

ヤハウェからの霊的食物を、

継続的に取り入れ、養われる必要があり、

更に、

「与える」側も「受ける」側も共に、霊的に成長しなければならない事になります。

 

繰り返しますが、

「与える」側も、

「受ける」側も、

霊的に養われる必要がある、という事です。

勿論、ヤハウェから。

 

ですから、「与える」側は、

「受ける」側に、与える、という務めを、

主人から、ただ《任されている》だけで、何も特別な存在ではない、という事になります。

 

 

残念ながら、聖書を解釈している多くの専門家の方々が、この点を見落としています。

 

この事から、

メッセンジャーは特権ではありますが、

メッセンジャーさえ行っていればいい、という安易な考え方でいたとしたらどうでしょうか?

 

大切なのは、

あくまでも、まず、自分の霊的な成長でしょう。

 

以前と比べて、自分は、どこまで霊的に成長しただろうか?

 

☆霊的に成長した人は、

つまり、「霊的な大人」は、

.聖書の正確な知識欲が旺盛でしょう。

 

.更に、ヤハウェに喜んで頂く為に、進んで、ヤハウェからの矯正や戒めを受け入れる事でしょう。

 

.そして、何が何でも、悪魔を喜ばせたくない、という気持ちが、日増しに増してくる事でしょう。

 

.そして、ヤハウェやイエス・キリストにならいたい、という気持ちも強まってくるはずです。

 

.弱者に関しては、益々、愛、憐れみ、同情心等の強い気持ちも増してくるに違いありません。

 

.自分自身に関しては、益々、慎み、謙遜、更には、常に、道理にかなった見方が出来るようになってくるでしょう。

 

.何より、ヤハウェへの感謝や愛着心が、日に日に強まってくる事でしょう。

 

 

ヤハウェは、我々が、霊的に整えられるのを待って下さっている、という事を、いつも、思いに留めておくべきです。

(ぺテロ二3章9節 参照)

 

ある方は、今の世界情勢を分析して、大きな苦難は近い、と思っておられる方もいらっしゃるかも知れませんが、

この記事の中で言える事は、世界情勢は、ある程度は悟る助けになるかも知れませんが、世界情勢だけ分析していても、「その時」が、いつ来るのか?

を悟る事は出来ないでしょう。

 

ヨハネの黙示録17章17節に書かれてあるように、

 

ヤハウェが、

第八と十本の角の

「心を動かして御心を行わ」れる時、その時こそが、

大バビロン(大いなるバビロン)が滅びる時だからです。

どんな世界情勢だったとしても、です。

 

 

さて、先程の譬(たとえ)の話に戻りますが、

この譬(たとえ)の中では、

 

なぜ、

「忠実な思慮深い僕」だけが、

全財産を管理?

と言う内容ともとれる譬(たとえ)となっているのでしょうか?

 

「家の僕たち」つまり、「受ける」側は?

という疑問が生じるかも知れません。

 

聖書は一部分で、解釈出来ない預言的な譬もあります。

では、その事も考慮しつつ、

次回、又、別のイエスの語られた譬から、その点もふまえた上で、更に、踏み込んだ奥義に入ってゆきたいと思います。

 

 

 

本日、最後に、

私たちに、いつも命とその他全てのものを備えて下さり、霊的な糧も、定期的に備えて下さる、私たちの創造者ヤハウェに、栄光と誉れが、帰されますように。

そして、144000人が、一人も脱落する事なく、更に、その他の仮選別者の方々が、益々、霊的に整えられ、一人でも多くの方々が、悪魔の権威から解放され、高次元へと、国籍を移す事が出来ますように。

 

皆様にお仕えする一しもべより。