「本日の聖書の言葉」④《詩編144編1節 「主をたたえよ、わたしの岩を わたしの手に闘うすべを 指に戦するすべを教えてくださる方を」》

今回は、詩編144編1節に基づいて、

From KSRGさんのYouTubeチャンネルで公開されている、

イスラエル伝統刃物術 レベル2」

についてお伝えしたいと思います。

 

この技術は、From KSRGさんが、

西の死海のふもとにある小さな村に住むある方から、

個人的に受け継がれたもので、

終末の期間に入るまでは、全く公開されていなかった、ある意味、奥義です。

本来は、レベル7まであるそうですが、実はイエスの弟子たちも、

特に ぺテロとヨハネは修得していたそうです。

 

因みに、

エスを捕縛しようとした、大祭司の身辺警護人 マルコスに対して ぺテロが使った技術はレベル3の技術だったそうです。

 

又、創世記14章で、

アブラム(アブラハム)と

318人の精鋭が使った技術の中にも、

レベル2の技術があったそうです。

 

 

 

ポイントは、いかに相手の命を奪わずに無力化するかです。

エゼキエル書18章4節には、

ヤハウェが命をどのように思っておられるのか、次のように書かれてあります。

 

(新共同訳)

「すべての命はわたしのものである。、、罪を犯した者、その人が死ぬ。」

 

と書かれてある通りです。

 

 

勿論、ハルマゲドンの最終決戦で、ヤハウェによって死刑が確定した場合には、

144000人は、刑執行人として手を下さなければならないでしょう。

 

しかし、それまでは、相手の命を奪わずに無力化する必要があります。

それで、あらためて、

YouTubeチャンネル

From KSRGさんの、

イスラエル伝統刃物術 レベル2」

を研究して下さればと思います。

 

動画では分かりにくい細かなポイントや解説は、後日、当ブログで更新いたします。

 

大きな苦難、そして、ハルマゲドンの最終決戦において、ヤハウェが、

144000人に、どの程度の戦う技を教えてくださるかは、

その時にならないと分かりませんが、

皆が同じレベルの技をもって、

その戦いにのぞむわけではありません。

使える技は、今まで、この現世で、

これまで習得してきた技術に

+アルファされる技術です。

ですから、自己防衛の点でも、

《努力した者》と

《そうではない者》では当然差が出ることでしょう。

 

ガラテヤ人への手紙6章7節には、

次のような法則が書かれてある通りです。

 

(新共同訳)

「思い違いをしてはいけません。

神は、人から侮られることはありません。

人は、自分の蒔いたものを、

また刈り取ることになるのです。」

 

と書かれてあります。

 

更に、ローマ人への手紙2章6節には、

(新改訳2017)

「神は、一人ひとり、

その人の行いに応じて報いられます。」

 

と書かれてある通りです。

 

「その人の《行いに応じて》」

ということです。

 

 

出来る可能な限りの努力を今 行っているなら、

その人に応じた戦術の点でも、

後は、ヤハウェが後ろ楯となって

くださることでしょう。

 

実際にパウロは、

行うことはしっかりと行っていたので、

次のような経験をすることも出来たのです。

テモテへの手紙 第二4章17節

 

(新改訳2017)

「しかし、主は私とともに立ち、

私に力を与えてくださいました。

それは、私を通してみことばが

余すところなく宣べ伝えられ、

すべての国の人々がみことばを

聞くようになるためでした。

こうして私は

《獅子の口から救い出された》のです。」

と書かれてあります。

 

いくら刃物を手にしていたとしても、

獅子、つまりライオンと格闘するなど、

皆様ならどうでしょうか?

伝承によると、

この時、パウロが持っていたのは

短刀です。

パウロはこの時、人間的な考えから格闘したわけではなかったということを、

次のように述べています。

 

コリント人への手紙 第一15章32節で、

(新改訳2017)

「もし私が人間の考えから

エペソで獣と戦ったのなら、

何の得があったでしょう。」

 

パウロは、神の御言葉を宣べ伝える為に、

ヤハウェからのパワーを頂けたというのは当然ですが、

獅子(ライオン)との格闘においても、

ヤハウェからのパワーを頂いて戦ったのです。

ですから、

「もし私が人間の考えからエペソで獣と戦ったのなら

《何の得があったでしょう》。」

 

つまり、ヤハウェの後ろ楯を経験出来なかったことでしょう。

と言いたかったわけです。

ヤハウェから継承されたものに全幅の信頼を置いていたのです。

 

 

皆様はこれから起こるであろう

様々な苦難、

大きな苦難、そしてハルマゲドンです。

不安などない、と言えば嘘になるかも知れません。

しかし、本日の聖書の言葉にあるように、ヤハウェにこれからも信仰を働かせ、ヤハウェに頼ってゆきましょう。

 

詩編144編1節

 

(新改訳2017)

「わが岩なる主が

ほめたたえられますように。

戦いのために私の手を

戦のために私の指を鍛えられる方が。」

 

 

イスラエル伝統刃物術 レベル2」

No.1~5も参考にして頂けたらと思いますが、今回は特に

No.6のURLを貼らせて頂きます。

https://youtu.be/ht4VHw-8ZjU

 

その他、洋の東西を問わず、世界には様々な格闘術がありますが、その殆どが、相手の生命を奪ってしまう技術です。

使える使えない、という観点からではなく、ヤハウェが人間に継承した技だということを忘れないようにして頂けたらと思います。

学んだ通り行うなら、普通を超えた経験をすることになるでしょう。

 

イザヤ書35章3、4節

(新改訳2017)

「弱った手を強め、

よろめく膝をしっかりさせよ。

心騒ぐ者たちに言え。

『強くあれ。

恐れるな。

見よ。あなたがたの神が、

復讐が、

神の報いがやって来る。

神は来て、

あなたがたを救われる。』」

 

最後に、From KSRGさんのYouTubeチャンネルでは、様々な道具の使い方が公開されています。

それもバランスよくです。

確かに、大きな苦難の主流となるものは刃物かも知れませんが、主流があるなら、その他の補う道具もあるということです。

刃物だけにこだわったり、かたよらず、使える、と思うもの、つまり、

道具は使って下さればと思います。

エゼキエル書9章1節

(口語訳)

「町を罰する者たちよ、

おのおの滅ぼす武器をその手に持って近よれ。」

と訳されています。

新改訳2017年版では、

(新改訳2017)

「破壊する武器をそれぞれ手に持った、この都を罰する者たちを連れて来い。」

これらの訳は間違いではありません。

しかし、この訳だけを見ると、

どうしても、個人の好みが優先してしまうかも知れません。

 

新共同訳ではどのように訳されているのでしょうか。

 

(新共同訳)

「この都を罰する者たちよ、

おのおの破壊する道具を手にして近寄れ。」

 

と訳されているのです。

 

「道具」

そもそも、何かを成し遂げようとする時、通常、道具は一つではないでしょう。

いく種類もの役割の異なった道具がないと成し遂げることは不利です。

しかし、ある方々はこう考えるかも知れません。

いく種類もの異なった刃物があれば、と。

ではFrom KSRGさんのYouTubeチャンネルでは、未だに、色々な道具の使い方が公開されているのはなぜなのでしょうか。

このメッセージを読み取って頂けたらと思います。

 

ミカ書6章8節には次のように書かれてあります。

 

(新改訳2017)

「主はあなたに告げられた。

人よ、何が良いことなのか、

主があなたに何を求めておられるのかを。

それは、

ただ公正を行い、

誠実を愛し、

へりくだって、

あなたの神とともに歩むことではないか。」

 

ここに、

「へりくだって、

あなたの神とともに歩むことではないか。」

 

と書かれてありますが、これは、

「物事を自分の主観だけに頼ったり、偏った見方をするのではなく、バランスよく、謙遜に受け入れる」

 

という意味もあります。

 

自己防衛の想定、つまり、

今後の危機管理は皆それぞれだと思いますが、繰り返しますが、今回の記事の趣旨を読み取って下さればと思います。

 

(*この国内において、ライフラインが止まってしまうという緊急事態が起きないうちに、出来ましたら、

書籍版の聖書

可能なら、新改訳2017年版を今のうちに購入されることをおすすめ致します。

更に、当ブログの記事、

yahweh-ksrg's blogさんの記事を、

モバイル機器などのデータだけではなく、コピー用紙に、コピーしたり、或いは、ノートなどにまとめておかれることをおすすめ致します。

パウロは、テモテへの手紙4章13節で、次のように述べました。

「あなたが来るとき、

トロアスでカルポのところに置いてきた外套を持って来てください。

また書物、特に羊皮紙の物を持って来てください。」

と書き送りました。

当時は、パピルス紙に書かれた物よりも、羊皮紙に書かれた物の方が長期に渡って保存することが出来たので、

パウロは、このようなメッセージを聖書に保存させました。

勿論、今のテクノロジーを利用して、聖書や霊的な固い食物を保存することも出来るかも知れませんが、万が一に備えて、ということです。

エスは、このように言われました。

(口語訳)

「だから、あなたがたも

用意をしていなさい。

思いがけない時に人の子が来るからである。」

「用意をしていなさい。」

字義的には、

「用意が出来ていることを主人に対して示す」

という意味があります。

この記事の趣旨を読み取って下さればと思います。)

 

 

 

 

 

 

【ヤハウェのみ旨 保存版 ⑥】《ヤハウェはすべての人が救われることを望んでおられる》

今回は、まず、口語訳聖書の、

テモテへの第一の手紙 2章4節の聖句を考察したいと思います。

 

(口語訳)

「神は、すべての人が救われて、

真理を悟るに至ることを望んでおられる。」

 

と書かれてあります。

 

この訳だけを見ると、

「真理を悟るに至ること」

イコール

「救われ」ること。

 

と解釈してしまいがちですが、

果たしてそのようなメッセージを伝える為の聖句なのでしょうか。

 

 

実はこの訳し方なのですが、

 

海外の訳の多くは、

このようなメッセージを伝えるようには訳されていません。

 

 

これは、日本語独特の文法ゆえであると思います。

 

つまり、先程の訳の

上の文章と、

下の文章を逆にして見ると、

 

「神は、すべての人が、

真理を悟るに至り、

救われることを望んでおられる。」

 

となります。

 

こちらの方が自然ではないでしょうか。

 

では、《真理を悟るに至る》

このような状態になるなら、

必ず救われるのでしょうか?

 

確かに、《真理を悟るに至る》

そうした状態になるならば、

救われる可能性は高くなるでしょう。

 

しかし、人間には、自由意思が与えられています。

最終的に、ヤハウェに仕えるかどうかは、最後まで分からない、ということになります。

 

事実、堕天使 悪魔サタン ルシファーは、

完全な御使いケルビムで、

真理を悟るに至る、と言えるほど、神の御言葉に精通していました。

 

アダムはどうでしょうか?

完全な人間であり、真理を悟るに至る、と言えるほど、

ヤハウェから個人的に教育を受けていたのです。

 

にも関わらす、両者共、故意に、

ヤハウェから離れました。

何が原因だったのでしょうか。

その点は後でまとめるとして、

 

では、他の訳し方からも分析してみましょう。

 

(新共同訳)

「神は、

すべての人々が救われて

真理を知るようになることを望んでおられます。」

 

(新改訳2017)

「神は、

すべての人が救われて、

真理を知るようになることを望んでおられます。」

 

と、このように訳されているわけです。

 

先程と同じように、この二つの訳も、上の文章と下の文章を、

逆に置き換えると、

「神は、

すべての人が真理を知り、

救われることを望んでおられます。」

 

とこのようになるわけです。

 

真理を悟るに至った者ですら、

最後まで分からないのであれば、

ただ、真理を知るだけで救われる、というのは、かなり無理があるでしょう。

(*だだし、ここで「悟るに至る」と訳されているギリシャ語は、

他の訳で「知る」と訳されているように、ようするに、「理解する」という意味にすぎない、ということです。

確かに日本は、仏教国なので、

「悟る」というと、

なにかを「極めた」

或いは、「到達した」などという

イメージがあるかも知れませんが、

特に、口語訳などで、「悟る」と訳されている語は、大抵「理解する」という意味のことだと覚えておくとよいかも知れません。)

 

では、原語解釈的には、この聖句をどのように理解すればよいのでしょうか?

「神は、様々な人々が、

真理の正確な知識を実践し、

救いを望む者になって欲しい、

これこそ、神の御旨である。」

 

このように解釈出来ます。

 

実際に、パレスチナ地方で読まれているある聖書を、日本語に訳すると、

このように訳せる聖書もあります。

 

結局は、その人が最終的に、

何を望むのか?

ということです。

 

✍️

ヤハウェへの愛や隣人への愛を着実に育んでいれば、

更に、ヤハウェへの感謝、愛着心、崇敬の念、信仰、信心、敬虔さ、

忠実、忠誠心、忠節、

更に、敬虔な畏れを、

ヤハウェに惹かれているゆえに、

好かれたい、

嫌われたくない、

という心からの敬愛とも言える気持ちを育んでいるなら、

 

もう一度書き記したいと思いますが、

「神は、

様々な人々が、

真理の正確な知識を実践し、

救いを望む者になって欲しい、

これこそ、神の御旨である。」

 

この言葉の真意が理解出来るはずです。

聖書の正確な知識を実践し、実践し、実践するなら、その経験から、ヤハウェの偉大な愛と知恵と義と力を痛感するはずです。

そして、自らの自由意思でヤハウェに仕えたい、と望むこと、

 

これこそが、

今回のヤハウェのみ旨です。

 

この解釈は最新の解釈に基づいています。

ヤハウェが私たちに、この奥深い真理を、このように分かりやすく教えて下さいましたことを

心から感謝したいと思います。

 

yahweh-ksrg's blogさんの方からは、定期的に、聖書の最新の解釈記事か更新されています。

https://yahweh-ksrg.hatenablog.jp/about

 

 

 

【144000人の奥義】(13)《賢明な者たちは、、多くの者を義に導いた者は、》「ダニエル書12章の解説 ④」

今回は、ダニエル書12章3節をまず考えましょう。

 

新改訳2017

 

「《賢明な者たち》は大空の輝きのように輝き、

 

《多くの者を義に導いた者》は、

世々限りなく、星のようになる。

 

まず、この部分を考えましょう。

 

最初に、ここで言われている

「賢明な者たち」

 

そして、

 

「多くの者を義に導いた者」

です。

誰のことを述べているのでしょうか?

これらは一見、同じ人々のようにも思えるかも知れません。

なぜなら、同じダニエル書11章では、そうともとれる訳し方がされているからです。

しかし、原語から解釈するならば、この最終の12章で敢えて、分けて、記されているのには意味がある、ということをまずはおさえておいて下さればと思います。

 

では、

口語訳では何と訳されているのでしょうか。

 

「《賢い者》は、大空の輝きのように輝き、

 

《また多くの人を義に導く者》は、

星のようになって永遠にいたるでしょう。」

 

となっています。

 

新共同訳では、

 

「《目覚めた人々》は大空の光のように輝き

 

《多くの者の救いとなった人々》はとこしえに星と輝く。」

 

となっています。

 

これらの訳を見比べると、

日本語訳でもある程度理解することが出来るかも知れません。

特に、口語訳では、

「また」

という文字が入ることにより、

前者と後者を別に考えるように、というニュアンスとも取れる接続詞が使われています。

 

実際に、海外の訳はもっとこの部分が分かりやすく訳されている聖書もあります。

つまり、ダニエル書12章は、

理解しやすいように、

敢えて、

前者と後者を別けて訳されている、ということです。

 

要するに、

前者は、

(新改訳2017)

「賢明な者たち」

(口語訳)

「賢い者」

(新共同訳)

「目覚めた人々」

 

です。

 

そして後者が、

 

(新改訳2017)

「賢明な者たち」であり、

更に、

「多くの者を義に導いた者」

(口語訳)

「賢い者」であり、

更に、

「また多くの人を義に導く者」

(新共同訳)

「目覚めた人々」であり、

更に、

「多くの者の救いとなった人々」

 

ということです。

 

 

お分かり頂けたでしょうか。

ではまず、前者の、

 

(新改訳2017)

「賢明な者たち」

 

(口語訳)

「賢い者」

 

(新共同訳)

「目覚めた人々」

 

から考えてゆきましょう。

 

 

 

ここで述べられている人々は、

終末の期間に入ってから、

ヤハウェに仮選別され、

ハルマゲドンまでに気づきがあり、ヤハウェのみ旨を行おうと鼓舞され、実践している人々全てを表しています。

つまり、144000人級とすべての仮選別者からなる集合体です。

 

 

ただ、その中でも、後者の、

特に、

(新改訳2017)

「多くの者を義に導いた者」

 

(口語訳)

「多くの人を義に導く者」

 

(新共同訳)

「多くの者の救いとなった人々」

 

ここで述べられている人々は、

その中でも特に、

真の救済策を、

何かしらの方法で宣べ伝え

《続けた人々》

を表しています。

 

では、

 

例えば

初めは熱心にそのような活動を行ってはいましたが、

何かしらの状況が生じたゆえに、

途中で止めてしまった人々は、

先程の聖句でいうならどうなんでしょうか。

もしかすると、

前者の方に入るかもかも知れません。

(*あくまでも、ヤハウェに仕え続けているなら、ということで、自分の思考からヤハウェが離れてしまった人に関しては論外です。

厳しいように聞こえるかも知れませんが、悪魔の世のものになってしまえば、当然、選別から外れてしまうことでしょう。)

ただし、後に再開し、

宣べ伝える活動を最後まで行った人は後者を表しています。

当然、初めから終わりまで伝え続けた人々も後者になるでしょう。

今から始め、最後まで宣べ伝え続けた人々も、後者を表しているでしょう。

更に、今回の記事で鼓舞され、

ある意味目覚め、再び再開した人々も後者を表しているでしょう。

注目すべきなのは、

最後までやり遂げた人々、ということです。

 

 

 

当然ですが、前者よりも後者は、

ガラテヤ人への手紙6章7~9節の法則に基づき、より大きな報いを刈り取ることになります。

(新改訳2017)

「思い違いをしてはいけません。

神は侮られるような方ではありません。

人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。

自分の肉に蒔く者は、

肉から滅びを刈り取り、

御霊に蒔く者は、

《御霊から》

《永遠のいのち》

(*別解釈 「永遠の報い」

特に、144000人級に関しては、今、何を行うかにより、高次元に上げられた時に、ヤハウェから頂ける、

個人的なプレゼントに違いが生じます。

この個人的に与えられるであろう

プレゼントに関しては、

後日、あらためて伝えることの出来る範囲でお伝え出来ればと思いますが、

文字でお伝えするには限界がありますので、御了承下さい。

ただし、144000人全体として与えられるプレゼントも壮大なものですが、

個人的に与えられるプレゼントに関しては、

ヤハウェと与えられた本人しか分からないものです。

人間は、この宇宙、

地球(地球の中心も含む)、

素粒子のミクロの世界、

時間の概念、次元などについて、

一体、

何を理解しているでしょうか。

無限の力や知恵を持たれるヤハウェが、

どのような方かを理解すれば、

その与えられるであろうプレゼントは、

想像を遥かに超えるものであることは間違いありません。

 

例えば、詩編145編16節の 

(新改訳2017)

「あなたは御手を開き

生けるものすべての願いを満たされます。」 

 

と書かれてある預言的な聖句は、

完全になった時に、

完全な思考で、その人が望むもの、

その願いを満たして下さるわけですが、

 

ヤハウェが個人的に与えて下さるであろうプレゼントは、

そのようなものを

《遥かに凌駕した壮大なもの》だということだけ、

今回はお伝え出来ればと思います。

パウロヤハウェの偉大さに関して、

ローマ人への手紙11章33、34節で、

(新改訳2017)

「ああ、神の知恵と知識の富は、

なんと深いことでしょう。

神のさばきはなんと知り尽くしがたく、

神の道はなんと極めがたいことでしょう。

『だれが主の心を知っているのですか』」

と述べました。

いくら完全になったとしても、又、不滅、不朽の霊者になったとしても、

ヤハウェからの報いの全容を予測することは不可能です。

ヤハウェの「知識の富」の全容を知ることなど、誰が出来るでしょうか。

そのような想像を遥かに超えるような報い)

を刈り取るのです。

 

(新改訳2017)

「《失望せずに善を行いましょう》。

《あきらめずに続ければ》」、

 

(新共同訳) 

「飽きずに励んでいれば」

 

(口語訳)

「たゆまないでいると」

 

(*解釈的)には、

「疲れ果てて落胆してしまわないなら」)

 

「《時が来て》

《刈り取ることになります》。」

先程も述べたように、

ヤハウェからの報いの点では個人差はあるかも知れませんが、

救いの点では、皆同じと言えるでしょう。

 

では、続く部分の、12章4節

(新改訳2017)

「ダニエルよ。

あなたは

《終わりの時まで》、

このことばを

《秘めておき》、

この書を

《封じておけ》。

多くの者は

《知識を増そうと》

《捜し回る》。」

 

(口語訳)

「ダニエルよ、

あなたは終りの時までこの言葉を

《秘し》、

この書を

《封じておきなさい》。

多くの者は、

《あちこちと》

《探り調べ》、そして

《知識が増す》でしょう。」

 

となっています。

 

そして興味深いことに、

新共同訳では、次のように訳されています。

 

「ダニエルよ、

終わりの時が来るまで、

お前はこれらのことを

《秘め》、

この書を

《封じておきなさい》。

多くの者が

《動揺するでしょう》。

そして、

《知識は増す》。」

 

 

*「多くの者」は、

どのように

《あちこちと探り調べ》、

《捜し回り》、

《動揺し》、

そして、

「知識」が増すのでしょうか?

 

*又どの程度の知識なのでしょうか?

 

*いつ封印が解かれるのでしょうか?

 

*この預言は、現在、

yahweh-ksrg's blogさんが解説してくれているヨハネの黙示録11章の

「三日半」とどのような関連があるのでしょうか?

 

*イエスが語られた預言的な譬(たとえ)はどうなのでしょうか?

 

*主人はいつ旅に出掛けたのでしょうか?

 

*又そうであるならば、

今、宣べ伝える速度を遅くしている時でしょうか?

 

*5タラントは何を表しているのでしょうか?

 

*2タラントは?

 

*1タラントを土の中に隠した、というのはどのような深い意味があるのでしょうか?

 

*入ろうと努めながら、入れない者が多い、とは、誰のことを述べているのでしょうか?

 

*狭き門が益々狭められているのはなぜでしょうか?

 

*主人が旅に出掛けたのが遅れたのはなぜでしょうか?

 

*世界情勢は明らかに、

バイブルのシナリオ通り進んでいます。

もし、今、何かしらの疑念が生じているとしたら、それを誰が一番喜んでいるでしょうか?

 

*又、我々は何が出来るでしょうか?

 

ユダの手紙22~23節を見ると、

 

(口語訳)

「疑いをいだく人々があれば、

彼らをあわれみ、

火の中から引き出して救ってやりなさい。、、」

と書かれてある通りです。

 

我々に出来ることは、一人でも多くの方々を、

ヤハウェに導き《続ける》

ための奉仕です。

 

ぺテロの手紙 第一 4章11節には、

(新改訳2017)

「語るのであれば、

神のことばにふさわしく語り、

奉仕するのであれば、

神が備えて下さる力によって、

ふさわしく奉仕しなさい。」

 

と書かれてある通りです。

 

出来る可能な方々は、

今こそ、悪魔に対抗する最大の手段である宣べ伝える活動により、

真理を引き続き、発信してまいりましょう。

 

パウロも次のように述べている通りです。

コリント人への手紙 第二 6章1~10節

(新改訳2017)

「私たちは神とともに働く者として、

あなたがたに勧めます。

神の恵みを無駄に受けないようにしてください。

神は言われます。

『恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける。』

見よ、今は恵みの時、

今は救いの日です。

私たちは、この務めがそしられないように、

どんなことにおいても決してつまずきを与えず、

むしろ、あらゆることにおいて、

自分を神のしもべとして推薦しています。

すなわち、

苦難にも苦悩にも困難にも、

むち打ちにも入獄にも騒乱にも、

疲れ果てた時も眠れない時も食べられない時も、

大いなる忍耐を働かせて、

また、純潔と知識、

寛容と親切、

聖霊と偽りのない愛、

真理のことばと神の力により、

また左右の手にある義の武器によって、

また、ほめられたりそしられたり、悪評を受けたり好評を博したりすることによって、

自分を神のしもべとして推薦しているのです。

私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、

人に知られていないようでも、よく知られており、

死にかけているようでも、殺されておらず、

悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、

貧しいようでも、多くの人を富ませ、

何も持っていないようでも、すべてのものを持っています。」

 

と書かれてある通りです。

(*この聖句の注解は後日、お伝え致します)

 

 

では次回から、ダニエル書12章の核心となる説明に入ってゆきます。

まずは、ダニエル書12章、

そして同じダニエル書の別の預言に焦点をあててゆきます。

そして

いよいよ、この章の奥義に更に、

迫ってゆきたいと思います。

 

 

近日中に、yahweh-ksrg's blogさんの方から、

From KSRG☆「神の言葉【聖書】は とこしえに残る」(35)を更新予定です。

 

 

 

yahweh-ksrg's blogさんの方からは、聖書の最新の解釈記事が定期的に更新されています。

お見のがしなく

https://yahweh-ksrg.hatenablog.jp/about

 

 

 

 

 

「本日の聖書の言葉」③《詩編119編57節》『ヤハウェは私に与えられた分です』

今回は、詩編119編57節の詩編作者の言葉から、ヤハウェについて考察してゆきましょう。

 

まず、詩編119編57節の口語訳には次のように訳されています。

(口語訳)

ヘス 

(*別訳では、「ケト」「ヘート」

新共同訳では、「ヘト」

 

意味は、ヘブル語の数字の「8」を意味しています。

因みに、

1 →「アレフ

2 →「ベト」

3 →「ギメル」

4 →「ダレト」

5 →「ヘー」

6 →「ワウ」

7 →「ザイン」

8 →「ヘト」

9 →「テト」

10 →「ヨド」

です。

本文の意味との深い関係は御座いません。)

 

 

「主は わたしの受くべき分です。

わたしは あなたのみ言葉を守ることを約束します。」

 

(新共同訳)

「主はわたしに与えられた分です。

御言葉を守ることを約束します。」

 

と訳されています。

 

意味深な言葉だと思われないでしょうか?

 

詩編119編を筆記したのはダビデではありません。

色々な説がありますが、

明確に誰、と分かっているわけではありませんので、

今回は名前は控えさせて頂きます。

 

さて、この119編の筆記者は、

(口語訳)

「主はわたしの受くべき分です。」

(新共同訳)

「主はわたしに与えられた分です。」

と言い切ることが出来たほど、

ヤハウェのことを理解し、愛し、

慕い、敬愛していたことが分かります。

 

では、この部分をどのように解釈すればよいのでしょうか?

 

この「受くべき分」とか

「与えられた分」と訳されている

ヘブル語は、

幅広い意味を持つ語で、

原語から解釈すると、

「分け与えられたもの、

分け前、受け分、

ヤハウェから与えられる身分、

能力、責任、成すべき務め、」

 

等と解釈することが出来ます。

 

興味深いことに、新改訳2017年版を見ると、

(新改訳2017)

「主は私への《割り当て》です。

私はあなたのみことばを守ると

申し上げました。」

 

と訳されています。

《割り当て》

 

恐らく、ヤハウェから与えられた責任や能力、成すべき務めという意味の部分に注目して訳されたのでしょう。

 

しかし、考えてみて下さい。

 

簡潔にいうなら、

ヤハウェは私に与えられた

プレゼントです。」

ということです。

 

世界には様々な神々が崇拝されていますが、

これほど近づきやすい神が一体どこにいるでしょうか?

 

キリスト教の中でさえ、

天の父、ヤハウェの御子が

エス(様)なのです。

更に、ヤハウェが与えて下さる霊の一部である聖霊が、

聖霊(様)なのです。

 

天の父は、ご自身の御子を(~様)と呼ばせたいのでしょうか?

ご自身の霊の一部を、(~様)と呼ばせたいのでしょうか?

本日の聖書の言葉を考察する限り、

そのようなことはあり得ないと、

皆様も思われないでしょうか。

 

今回の詩編119編の筆記者は、

 

ヤハウェは自分に与えられた

プレゼントです。」

 

と言えるほど、

ヤハウェと親しい関係を培っていたのでしょう。

事実、ヤハウェは、ご自分に仕える者たちに、

強力な愛、

知恵、

義、

そして力を与えて下さいます。

ご自分に仕え、ご自分が与えることの出来るものを、最大限に活用してほしい、と望んでおられます。

 

ぺテロの手紙 第一 4章11節には、次のように、書かれてあります。

(新改訳2017)

「語るのであれば、

神のことばにふさわしく語り、

奉仕するのであれば、

神が

《備えてくださる力によって》、

(*別訳 

「神が備えて下さる霊に頼る者として」)

ふさわしく奉仕しなさい。、、、」

となっています。

 

そのヤハウェの霊的な力について、イザヤは次のように述べています。

 

イザヤ書40章28~31節で、次のように書かれてあります。

 

(新共同訳)

「あなたは知らないのか、

聞いたことはないのか。

主(ヤハウェ)は、とこしえにいます神

地の果てに及ぶすべてのものの造り主。

倦(う)むことなく、

疲れることなく

その英知は究めがたい。

疲れた者に力を与え

勢いを失っている者に

大きな力を与えられる。

若者も倦み、疲れ、

勇士もつまずき倒れようが

主に望みをおく人は

新たな力を得

鷲のように翼を張って上る。

走っても弱ることなく、

歩いても疲れない。」

 

一人でも多くの方々が、ヤハウェに導かれることを祈っています。

 

因みに、話を詩編119編57節に戻しますが、ある英語に翻訳された英訳聖書は、

次のように訳されています。

 

興味深かったので、

最後にお伝え出来ればと思います。

 

「Yahweh is my everything .」

日本語直訳では、

ヤハウェ

私のすべてです。」

 

 

この訳し方も間違ってはいません。

ものすごくシンプルで、

黙想次第では、色々な発見があるかも知れません。

是非、祈りのうちに黙想なさってみて下さい。

 

 

 

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https://yahweh-ksrg.hatenablog.jp/about

 

 

 

 

【ヤハウェのみ旨 保存版 ⑤】《ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。》

今回は、イエスが語られた黄金律とも言われている、

マタイの福音書7章12節から、

ヤハウェのみ旨を考察してゆきましょう。

(新改訳2017)

「ですから、

からしてもらいたいことは何でも、

あなたがたも同じように人にしなさい。

これが律法と預言者です。」

 

(口語訳)

「だから、

何事でも人々からしてほしいと望むことは、

人々にもそのとおりにせよ。

これが律法であり預言者である。」

 

(新共同訳)

「だから、

人にしてもらいたいと思うことは何でも、

あなたがたも人にしなさい。

これこそ律法と預言者である。」

 

と書かれてあります。

 

これは、そのまま文字通りに解釈してしまうと、

トラブルが発生しかねない言葉と

なるかも知れません。

 

人間は十人十色、自分が、誰かから、何かしてほしいと思うことが、必ずしも、他の人も同じように感じるとは限らないからです。

 

ではこの言葉は、どのように解釈出来るのでしょうか?

 

皆様は、自分が心からしてもらいたい、してほしいと思ったことを、

その通り誰かからしてもらった経験はおありでしょうか?

現実問題、こちらから相手側に、具体的に伝えないなら、

難しいことかも知れませんね。

 

確かに、この言葉を実践する為には、相手側が、どのような人で、何をしてあげれば喜ぶのかを、まずは知る必要があるかも知れません。

 

ただ、イエスは、そのようなことを教える為だけに、この黄金律を述べたのでしょうか?

 

もう一歩踏み込んで、

この黄金律は、山上の説教の中で語られた言葉だということを思いおこして見て下さい。

山上の説教は、次の言葉から始まっています。

 

マタイの福音書5章3節

(新改訳2017)

「心の貧しい者は幸いです。

天の御国はその人たちのものだからです。」

と書かれてあります。

新改訳2017年版の脚注を見ると、

直訳

「霊において貧しい者」

となっています。

 

つまり、ヤハウェからの霊的な必要を欲している者です。

 

そのことを考えると、

マタイの福音書7章12節をどのように解釈出来るでしょうか?

 

相手の霊的な飢え、

霊的な必要を満足させてあげること。

つまり、

ヤハウェに他の人を導いてあげることです。

 

詩編145編16節には、

ヤハウェについて次のように書かれてあります。

 

(新改訳2017)

「あなたは御手を開き

生けるもの

《すべての願い》を

《満たされます》。」

 

人間の必要を100%満たすことの出来る方は、ヤハウェだけです。

 

 

これが今回考えた、ヤハウェの御旨です。

是非、一人でも多くの方々を、

ヤハウェに導いてあげましょう。

 

この宣べ伝える業は今しか出来ないのです。

後悔のないよう

善を行える内に行いましょう。

 

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【ヤハウェのみ旨 保存版 ④】《受けるよりも与えるほうが幸いである》

今回は、新改訳聖書2017年版の

使徒の働き20章35節の、

パウロが述べた言葉から

ヤハウェのみ旨について考えてゆきましょう。

 

使徒の働き 20章35節

(新改訳2017)

「このように労苦して、

弱い者を助けなければならないこと、

また、主イエスご自身が

『受けるよりも与えるほうが幸いである』

と言われた みことばを、

覚えているべきだ ということを、

私はあらゆることを通して

あなたがたに示してきたのです。」

 

パウロは述べました。

パウロは12使徒ではありませんでしたから、

エスが亡くなられる前に、

直接、イエスから教えを受けることはありませんでした。

パウロ使徒職は、

ヤハウェとイエスから直接、任命されたものでしたが、

完全な人間としてのイエスから、

指導を得たわけではありませんでした。 

当時は、パリサイ派のガマリエルから、英才教育を受け、

次期、サンヘドリンの正員候補でした。

 

ですから、

「、、主イエスご自身が

『受けるよりも与えるほうが幸いである』

と言われたみことばを、、、」

と言ったのは、

恐らく、ルカから聞いたものと思われます。

 

 

では、ルカはイエスが言われた

どの言葉を、パウロに伝えたのでしょうか?

 

ルカの福音書6章38節を見ると、

次のように書かれてあります。

 

ルカの福音書6章38節

(新改訳2017)

「与えなさい。

そうすれば、あなたがたも与えられます。

詰め込んだり、

揺すって入れたり、

盛り上げたりして、

気前よく量って懐に入れてもらえます。

あなたがたが量るその秤で、

あなたがたも量り返してもらえるからです。」

 

(新共同訳)

「与えなさい。

そうすれば、あなたがたにも与えられる。

押し入れ、

揺すり入れ、

あふれるほどに量りをよくして、

ふところに入れてもらえる。

あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」

 

(口語訳)

「与えよ。

そうすれば、自分にも与えられるであろう。

人々はおし入れ、

ゆすり入れ、

あふれ出るまでに量をよくして、

あなたがたのふところに入れてくれるであろう。

あなたがたの量るその量りで、

自分にも量りかえされるであろうから」。

と書かれてあります。

 

どの訳し方でも意味は伝わると思います。

 

つまり、パウロは、

エスが語った言葉をルカから伝え聞いたわけです。

 

確かに、イエスが語られたこの言葉は、宇宙の法則とも言える真理です。

しかし、この言葉だけだと、

ある人々は、誤解して解釈し、

これを、《見返りを期待》した行為と、受け取ってしまう人々もいるかも知れません。

 

それで、パウロは、敢えて簡潔に、

 

「、、主イエスご自身が

『受けるよりも与えるほうが幸いである』

と言われたみことばを、」

と、述べたものと思われます。

 

『受けるよりも与えるほうが幸いである』

 

なんと美しく、簡潔で、重みのある言葉でしょうか。

 

このみ言葉は真理です。

 

実際に、人間は、与えることから幸福感を味わうことが出来るように創造されています。

医学的見地から見ても、真実です。

 

しかし、悪魔は、これと真逆な精神を抱くよう様々な媒体を通して、

人間を洗脳しています。

又、そのように、与えることから喜びを得ることが出来ないように、

この体制を誘導しているのも事実です。

 

だからこそ、我々、ヤハウェの僕たちは、悪魔の世のものとならない為に、

『受けるよりも与えるほうが幸いである』

という

このイエスが述べた言葉を実践して、真の喜びを保つことが大切と言えるのではないでしょうか。

 

その与える最も価値ある方法は、

仮選別されている方々に、

 

(中にはまだ気づいていない、自覚していない方々もおられるかも知れません。

恐らくですが、可能性を見越して、かなりの数の方々が、

ヤハウェに仮選別されているものと思われます。

ただし、最終選別は最後にならないと分かりません。)

 

ヤハウェへの近づき方を知らせてあげることこそ、最大の愛の表現であり、

与えることの出来る最大のプレゼントと言えるでしょう。

 

(*ヤハウェは先々の可能性をも見越して、仮選別しています。

ですから、最後になって分かることですが、

どれだけ周囲の人から表面的に良い人と認識されていたとしても、

ヤハウェが仮選別しないには、我々、不完全な人間には分からない何かしらの理由がある、ということでしょう。

例1

「モハンダス・ガンジー

世間一般には、ガンジーは正義を貫き通した偉人である。

と言われてきましたが、SNSの進んだ今の時代では、知る人ぞ知っている事実ですが、本当にガンジーは正義を貫き通した偉人だったのでしょうか?

例2

マザー・テレサ

これまで、マザー・テレサと言えば、貧しい子どもたちの為に自身の財産を差し出した偉人で、カトリックのセイント(聖人)に認定されている人、と言われ続けてきましたが、本当にそうなのでしょうか?

このことも今では知る人ぞ知る裏の事実が?

ということです。

(※誤解のないようにして頂けたらと思います。

ここで敢えて実名を挙げさせて頂いたのは、「ある人々」では、説得力に欠けるということで取り上げさせて頂いたわけですが、だから、どうのこうの、ということを述べたかったわけではなく、表面的には人の良し悪しを見抜くことは難しいということを述べたかったわけで、逆に悪人と世間一般的に思われていた人が、実は人格者だった、というケースもあるわけです。)

 

聖書でいう「正しい人」というのは、

良心が正常に機能している人であり、良心が正常に機能している人であるなら、最終的に、

伝道者の書12章13節の、

(新改訳2017)

「結局のところ、

もうすべてが聞かされていることだ。

神(ヤハウェ)を恐れよ。

神の命令を守れ。

これが人間にとって

すべてである。」

と書かれてあるように、

人間が存在している意義を、

正しく理解出来ている人のことです。)

 

それで、

可能な方々は、Web上で、そのような真実を知らせてあげることも出来るかも知れません。

 

現在、世界中で、そのことが行われています。

 

ただ、日本はある意味、特異な国と言えるかも知れませんので、働き人が少ないのも事実です。

 

さて、パウロは、ルカからイエスの述べた言葉を聞いた時、

エスは、宇宙の法則を述べただけで、

決して、見返りを期待する、というような意味での《与える行為》ではないということを正しく解釈して、読者に、分かりやすく要約しました。

 

勿論、パウロ旧約聖書に精通していましたので、

ルカからその言葉を聞いた時、

エスが、聖書のどの言葉を引用し、

あのような宇宙の法則を述べたのか理解していたことでしょう。

 

では、イエス旧約聖書のどの言葉を引用したのでしょうか?

 

それは箴言19章17節です。

 

(新共同訳)

「弱者を憐れむ人は主に貸す人。

その行いは必ず報いられる。」

 

エスは、この法則、つまり、真理を述べたのです。

 

これこそが、ヤハウェが望んでおられるご意志でもあるのです。

 

「弱者」

と言える方々に、

見返りを期待出来るでしょうか?

 

しかし、そういう方々にこそ、我々は愛を示すべきであり、

「憐れむ」

つまり、与える最高の行為である、真の救済策を知らせることによって、真の喜びを経験することが出来るでしょう。

 

ここで、述べられている

「弱者」とは、悪魔の世において、虐げられ、将来の希望も知らない人々、しかし、真理に飢えている、真理を求めている人々のことです。

 

 

「補足情報」

ヤハウェに仮選別されていなくても、大きな苦難の時、改心の機会が与えられ、改心して、「他の羊」の中に入れられる人々も、もしかしたらおられるかも知れません。

なぜ、そう言えるのかについては、後日、

聖書的根拠から解説致します。

 

※また、これまでに、善人である人々が、悪魔の世で、信じられないような酷い仕打ちを受け、最終的に殺害された方々はかなりの数にのぼることでしょう。

では、ヤハウェはなぜ、悪魔のそのような残虐な行為を許されたのだろうか?

と疑問に思われる方々もおられるかも知れません。

勿論、そう言った方々には復活の希望があり、新しい世で永遠に生きる機会が与えられます。

でも中には、過去に受けた残虐行為を忘れることなど出来ず、幸せにはなれないのではないだろうか ?

と思われる方々もおられるかも知れません。

聖書はなんと述べているでしょうか?

 

ヨハネの黙示録21章4節

(新改訳2017)

「《神は》彼らの目から

涙を《ことごとく》

《ぬぐい取ってくださる》。

、、悲しみも、

叫び声も、苦しみもない。

以前のものが過ぎ去ったからである。」

 

イザヤ書65章17節

(新改訳2017)

「見よ、《わたしは》

新しい天と新しい地を

《創造する》。

《先のこと》は《思い出されず》、

《心に上ることもない》。」

 

(口語訳)

「見よ、

《わたしは》

新しい天と、新しい地とを

《創造する》。

《先のこと》は

《覚えられることなく》、

《心に思い起こすことはない》。」

 

(新共同訳)

「見よ、

《わたしは》新しい天と新しい地を《創造する》。

《初めからのこと》を

《思い起こす者はない》。

それは

《だれの心にも上ることはない》。」

この真理を一人でも多くの方々に拡散して頂いだけたら幸いです。

 

 

最後に、当ブログや、

yahweh-ksrg's blogさんは、

この国内において、  

ヤハウェから、ある意味、特権として、霊的な食物を分配することを許されてはいますが、宗教団体などのように、悪魔の世でいう上下関係などは一切 存在していません。

むしろ、私たちは皆様にお仕えする奴隷に過ぎまん。

不完全な人間を高めることは

ヤハウェのご意志ではありませんし、

人間には救いはないからです。

ヤハウェにこそ、賛美と栄光が帰されるべきです。

 

その点を誤解のないようにして頂けたらと思います。

 

ルカの福音書17章10節

(新改訳2017)

「同じようにあなたがたも、

自分に命じられたことをすべて行ったら、

『私たちは取るに足りないしもべです。

なすべきことをしただけです』

と言いなさい。」

 

と書かれてある通りです。

 

マタイの福音書20章25~28節

(新改訳2017)

「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。

『あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは人々に対して横柄にふるまい、

偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。

あなたがたの間では、そうであってはなりません。

あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。

あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。

人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、

また多くの人のための贖いの代価として、

自分のいのちを与えるために来たのと、

同じようにしなさい。』」

 

 

 

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144000人の奥義「補足情報」(17)《この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。》

今回は、マタイの福音書22章40節をテーマとした内容です。

 

モーセの律法は、当時のイスラエル人にとっての、約600以上からなる掟集でした。

 

その後、あるラビたちによって、更に、バビロニアタルムードと呼ばれているものが加えられ、今日にいたっています。

 

それが、現在のユダヤ教聖典ということです。

 

しかし、

一世紀に、イエス・キリストは、

律法の中で最大の掟は何か、と問われた時、簡潔に次のように答えられました。

 

マタイの福音書22章37~40節

(新改訳2017)

エスは彼に言われた。

「『あなたは心を尽くし、

いのちを尽くし、

知性を尽くして、

あなたの神、主を愛しなさい。』

これが重要な第一の戒めです。

『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』

という第二の戒めも、

それと同じように重要です。

この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。』」

 

と、これがイエスの答えです。

 

イエス・キリストは神の言葉を付け加えたり、取り除いたりしたのではなく、

聞いている人々に分かりやすく要約したのです。

 

現在、聖書は様々な言語で翻訳され、今では世界中の人々が、自分の国の言語で読める、ギネスにも記録されている書です。

ただ、聖書は読んでいるだけでは意味がありません。

正しく解釈し、実践してはじめて意味が、そして益があるのです。

 

ヤコブは次のように述べました。

 

ヤコブの手紙1章22節

(新改訳2017)

「みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、

ただ聞くだけの者となってはいけません。」

 

*聖書の神はだれですか?

 

*真の救済策はなんですか?

 

*誰に信仰を働かせるべきですか?

 

*どのようにして、真の神を愛することが出来ますか?

 

*隣人は?

 

*今はどのような時ですか?

 

*この世を支配しているのは誰ですか?

 

*現在の宗教世界は、ユダヤ人を頼みの綱としているようですが、自称であろうが、正統であろうが、人間に救いはない、それはなぜですか?

 

*この世はどのようにして終わりをむかえますか?

 

*真の神を呼び求めた者には、どんな素晴らしい希望や報いが用意されていますか?

 

*真の神を知った者には、どんな特権がありますか?

 

*聖書の正確な知識を知ることによって、何から自由にされていますか?

 

*本物の忍耐を培うことには、どんな優れた益がありますか?

 

*なぜ、悪魔の世には、自己中心的な人々が多いのでしょうか?

 

*それに対して、利他的になることの益とはなんですか?

 

*本日のマタイの福音書22章37~40節の本質を理解しておられるでしょうか?

 

*これら基本的とも言える問いに皆様は答えることが出来るでしょうか?

 

 

 

是非、黙想なさってみて下さい。

 

 

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