【ヤハウェのみ旨 保存版 ⑦】《プレイヤーの奥義 ①》
今回は、プレイヤーの奥義ということで、
まず、ヘブル人への手紙11章6節から考えてゆきましょう。
(新改訳2017)
「信仰がなければ、
神に喜ばれることはできません。
神に近づく者は、
神がおられることと、
神がご自分を求める者には
報いてくださる方であることを、
信じなければならないのです。」
と書かれてあります。
ヘブル人への手紙11章は、
信仰の定義から始まり、
信仰の模範的な人物が列挙されています。
それで、最初の、
「神に近づく者は、
神がおられることと、」
つまり、真の神が実在しておられることをまず信じなければならない、ということです。
これが最初の大前提です。
ヘブル人への手紙11章を読むと、
ヤハウェの僕たちが、ヤハウェをどれだけ実在者として意識していたかを知ることが出来ます。
例えば、ヘブル人への手紙11章27節を見ると、モーセについて、
↓
(新改訳2017)
「信仰によって、
彼は王の憤りを恐れることなく
エジプトを立ち去りました。
《目に見えない方》を
《見ているようにして》、忍び通したのです。」
と書かれてある通りです。
皆様は、どうでしょうか、
真の神ヤハウェが実在しておられることをどの程度、
信じておられるでしょうか?
そして次です。
↓
「神がご自分を求める者には
報いてくださる方であることを、
信じなければならないのです。」
ということです。
神、ヤハウェが、
「ご自分を求める者には
報いてくださる方であることを信じなければならないのです。」
ということです。
皆様は、この聖句のどの部分に注目されたでしょうか?
「ご自分を求める者には」
と訳されている部分なのですが、
解釈的には、
↓
「心から求める、本心から、
切なる思い、必死に、
心からの強い思い、
切実に、
これまで辛く悲しい経験を何とか乗り越えた者が、最後の望みの綱として、切に信じ、訴えかける、このような真剣さ。」
を抱いて、ヤハウェに近づくなら、
ということです。
そのようにして近づいてくる者を、ヤハウェが無下に扱われるでしょうか。
勿論、祈りに対するヤハウェからの答えが与えられるのは、
必ずしも直ぐに、ということではないかも知れません。
当人にとって一番相応しい時です。
ですから、待たなければならない時もあります。
ただし、秘訣は、プレイヤーを行ったら、必要以上に、思い煩わない、ということです。
さて、このブログの記事を読んで下さっている皆様も、当然、
日々、プレイヤーでヤハウェに近づいておられることでしょう。
そして、プレイヤーの為の時間を、優先順位の上位の方に取り分けておられる方もいらっしゃるかも知れません。
しかし、不完全な人間である以上、その限られた時間内に、と考えてしまい、
時には、気持ちがこもっていない、
お決まりの、ただの習慣のような感じで、
あれもこれも、と言った具合に、
その時に、全てを祈らないといけない、となるかも知れません。
時間も限られていますし、そうなると、
心からの切実なプレイヤーとは、
言えないのでは、と感じるかも知れません。
これは一例ですが。
例えば、
テサロニケ人への手紙 第一5章17節を見ると、
↓
「絶えず祈りなさい。」
と書かれてあるからと言って、
プレイヤーだけに相当の時間を費やしてしまうのは現実的ではないかも知れませんね。
私たちは、各自 日々の生活の中で様々な責任を果たさなければならないからです。
ではどうすればよいのでしょうか?
プレイヤーは、儀式ではありませんから、場所や姿勢、時間や形式に、こだわる必要はありません。
勿論、イエスがマタイの福音書6章の中で言われた模範的な祈りは重要かも知れませんが、
その他の祈りに関しては、
何としても 自分がいつも取り分けている時間内に絶対に祈らなければ、と考える必要もありません。
どういうことかといいますと、
↓✍️
常に、ヤハウェと繋がっている状態だと考えてみて下さい。
常にヤハウェが身近にいて、
自分の心からの気持ちを込めた願いや相談などを聴いて下さっている状態、ということです。
だからと言って、いつもヤハウェのことを意識していないといけない、という意味ではありません。
時には何も考えたくない時もあるでしょうし、リフレッシュしたい時もあるでしょう。
しかし、今はヤハウェに身近にいて欲しいと思った時には、遠慮なく、
↓
「ヤハウェ、今は側にいて下さい。」
でいいわけです。
その時に、心の中から、ヤハウェに話しかけることも出来るでしょう。
自分の都合のよい時に、
全能の神に対して、そんなことは失礼では、と思われるでしょうか。
ヤハウェはそのような不完全な人間の願いや都合も考慮して下さるのです。
↓
ヨハネの手紙 第一3章20節
(新改訳2017)
「たとえ自分の心が責めたとしても、
安らかでいられます。
神は私たちの心よりも大きな方
であり、
すべてをご存じだからです。」
と書かれてある通りです。
(新共同訳)
「心に責められることがあろうとも。
神は、
わたしたちの心よりも大きく、
すべてをご存じだからです。」
と書かれてある通りです。
更に、悪魔の世で生活している以上、悩みは絶えません。
もし、一日の自分が取り分けてある時間内に、何もかも、
祈らなければならない、としたら、
何か重要なことを祈れなかったり、祈り忘れたと気づくことが生じるかも知れません。
しかし、パウロはそのような場合でも心配しなくてもいいということを、次のように述べています。
↓
ローマ人への手紙8章26、27節
(新改訳2017)
「同じように御霊も、
弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、
何をどう祈ったらよいか分からないのですが、
御霊ご自身が、
ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。
人間の心を探る方は、
御霊の思いが何であるかを知っておられます。
なぜなら、
御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。」
と書かれてある通りです。
少し難しい表現かも知れませんが、要するに、
↓
聖霊が、
不完全な私たちを助けてくれる、
ということ、
そして、祈りに関しても、
私たちの心からのうめきを聖霊がくみ取ってくれて、
ヤハウェに全てを、きちんと、
自分の本心を伝えてくれる、ということです。
もし、仮に重要と言えることを祈り忘れていたとしても、聖霊がしっかりとその人の本心からの望みを伝えてくれるのです。
その為に聖霊が与えられているのです。
祈りは、ヤハウェとの会話です。
一方通行のように感じるかも知れませんが、ヤハウェは本人が望むなら、全てを聞き入れて下さいます。
形式ばる必要はないのです。
✍️
ですから、
一日の自分が取り分けてある時間にまず、祈りたいことを祈るなら、
後は、《常に》
《ヤハウェと繋がっている状態》にしておくことも出来る、
ということを今回はお伝えしました。
では
最後に、ネヘミヤの経験からも、
学んでまいりましょう。
当時ネヘミヤは、
アルタクセルクセス王の側近で仕えていた人物です。
エルサレムの神殿と城壁の再建に関して、深刻な悩みを抱えていましたが、
立場上、王の側から離れることなどあり得ないことでした。
ネヘミヤは相当悩んでいたのでしょう。
その時、アルタクセルクセス王が
ネヘミヤに、
ネヘミヤ記2章4節(前半)
↓
(新改訳2017)
「王は私に言った。
『では、何を望んでいるのか。』」
この時、ネヘミヤは、王との会話の途中でした。
ネヘミヤはどうしたのでしょうか?
↓
4節(後半)
「私は天の神に祈ってから、」
と書かれてあります。
「私は天の神に祈ってから、」
そうです。
アルタクセルクセス王に気づかれない仕方で、心の中でヤハウェに祈ったのです。
その結果どうなったのでしょうか。
ネヘミヤの望み通り、ネヘミヤは
エルサレムへと向かうことになったのです。
これが今回のプレイヤーの奥義です。
今回の記事全体から、趣旨を読み取って頂けたらと思います。
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