【144000人の奥義】(7)「真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がしたとは?」

では、早速、本論に入ってゆきたいと思います。

 

まず、マタイによる福音書25章6節を見ると、

「真夜中に」とあります。

主人が遅れて、「真夜中に」という事ですが、

これは、終末の期間に例えるなら、

どのくらい、遅れている、という事でしょうか?

 

 

「真夜中に」という事ですので、

かなり遅れている事が分かります。

 

しかし、だからと言って、

主人の声がするのが、

この譬(たとえ)でいう、

「真夜中に」必ずなる、という意味でしょうか?

 

もし、それまでに、144000人級が、ヤハウェの望まれるところまで整えられていれば、それよりも早くなる事もあり得るわけです。

 

当然、整えられていなければ、

その時は又先に延びる事もあり得る、という事になります。

詳細は、この記事でも、後で、

書ける範囲で説明したいと思います。

 

 

それで、ここで言う「真夜中」についてですが、

新改訳聖書 2017年版のルカの福音書12章38節の脚注を見ると、

「真夜中」

直訳

「第二の夜回り」

すなわち、

(午後9時から夜中の12時まで)

となっています。

 

この、「真夜中」に関する具体的な考察は、また、後日行いたいと思います。

 

 

 

さて、話をマタイによる福音書に戻しますが、

エスが、

このような譬(たとえ)を預言的に語った、という事は、

《144000人級が整えられる》、というのは、そう簡単なものではない、という事でしょう。

 

繰り返しますが、

 

《144000人級が整えられる》、というのは、簡単な事ではない、と言えます。

 

 

そして、今回は、更に、

『花婿だ。迎えに出なさい』と

《叫ぶ声がした。》

という事ですが、

これは、どのように解釈すればよいのでしょうか?

 

興味深いのは、「叫ぶ声」がした。

というだけで、これは実際に

主人が《到着》したわけではない、という事です。

 

なぜなら、到着したのであれば、

戸を開ければ、主人が戸口にいるはずですし、そうであれば、

愚かなおとめたちが、油を買いに出かける事も出来ないでしょう。

 

つまり、

144000人級は、間もなく花婿(主人)が到着する事を《悟る》という事です。

 

144000人級全てが、《悟る》という事です。

 

 

では、全ての144000人級にインスピレーションが降りてきて悟る、という事でしょうか?

 

これらの詳細に関しましても、

又後日、詳しく解説できたらと思いますが、

興味深いのが、

 

ルカによる福音書21章34~36節を見ると、

(新共同訳)

「放縦や深酒や生活の煩いで、

心が鈍くならないように注意しなさい。

さもないと、

その日が不意に罠のようにあなたがたを《襲う》ことになる。

その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。

しかし、あなたがたは、

起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、

人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」

 

又、パウロもテサロニケの信徒への手紙5章4節の中で、

 

「しかし、兄弟たち、

あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。

ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを《襲う》ことはないのです。」

と書かれてあります。

 

お分かり頂けたでしょうか?

 

「賢いおとめ」級は、いつでも

「ともし火」をともせますので、

 

「真夜中に

『花婿だ。迎えに出なさい』

と叫ぶ声がした。」時、

象徴的な意味で、

主人の前に是認された状態で立つことが出来ます。

まさに喜びの瞬間です。

 

 

しかし、「愚かなおとめ」級にとっては、まさに《突然》です。

主人の到着が近いと悟ったとしても、

「不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。」のです。

「賢いおとめ」級とは全く逆の精神状態です。

 

ここで、

「襲う」と訳されているギリシャ語は、

「予想すらしていなかった事が突然起きた時に味わう

残念感、恐ろしい、恐怖、真っ青、

たじろぐ、めまい、呆然、 

過度の不安にさいなまれる、愕然、驚愕、後悔など、

これらの不安要素が一気に訪れた時に感じる精神状態」

 

そのような絶望感を生じさせる時に、

この「襲う」という語が使われる事があります。 

まさに、普通の人なら「気を失う」レベルと言えるでしょう。

 

ですから、「愚かなおとめ」級は、意味もなく、

『油を分けてください。わたしたちのともし火は《消えそうです》。』

と、呟く事になる、ということです。

何をどうしていいか分からない、という事でしょう。

 

さて、ここで言う「油」とは何だったでしょうか?

このシリーズの(5)に記載してあります。

繰り返しますが、

「愚かなおとめ」たちは

「賢いおとめ」たちに、

 

「油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。」

 

と述べた時、「賢いおとめ」たちは、

「分けてあげるほどありません。」

と述べています。

 

新改訳2017ではこのように訳されています。

「いいえ、分けてあげるにはとても足りません。」

 

「分けてあげるにはとても足りません。」

 

「とても足りません。」

 

分かるでしょうか?

 

「油」がこのシリーズの(5)で考えたものであるなら、

「賢いおとめ」級も誰かに分けてあげる事など、当然出来ません。

 

ですから「店に行って自分の分を買ってください」

というのは、

なぜ、「ともし火」をともす方法を知っていたにも関わらず、

「ともせ」なかったのか?

初心にかえって自己分析してください、という事です。

 

しかし、「花婿」は待ってはくれません。

最終的に、

「お前たちを知らない」

と宣告される、という事です。

 

 

それから、「油」の用意が出来ている者たちは、主人と共に、

《最初に上げられる》、という事です。

《最初に上げられる》

 

では、油の用意が出来ていなかった、「愚かなおとめ」級は、

その後、どうなるのでしょうか?

 

当然、主人から、

「はっきり言っておく。わたしは

おまえたちを《知らない》」

と《宣言される》、という事です。

 

つまり、

《144000人から外される》、という事です。

そして、補充は、その他の仮選別者から選ばれるでしょう。

 

ただ、完全に選別から外れたわけではありません。

なぜ、自分が144000人から外されたのか?

 

もしその時に、改心してハルマゲドンを通過出来るとすれば、

 

「他の羊」として大きな苦難を生きて通過出来る事を、

ヤハウェに感謝出来るでしょう。

 

なぜ、そのような余地が残されているのか、

といいますと、この譬(たとえ)の中で、

主人から、

「おまえたちを知らない」

と宣言された時の、

愚かなおとめたちの反応は、

エスの語られたその他の譬(たとえ)にあるように、

 

「泣きわめいて、歯ぎしりした」りは、していない事が関係しています。

 

「泣きわめい」たり「歯ぎしり」したりするという事は、

主人の決定に不服があるという事で、主人に反感を抱いている事になります。

つまり、自分の怠惰や過ちを認めようとしていない事を示しています。

 

ですからこの「愚かなおとめ」級は、この時点では、

 

完全に選別から外されているわけではありませんから、もし、自分の態度や過ちを悔い改めるなら、

 

その時は、聖霊もみ使いたちも後ろ楯になってくれます。

 

何とか大きな苦難、ハルマゲドンを生きて通過出来るように、という事です。

ただし、この時、《心から改心》しないなら、

「泣きわめいたり、歯噛みしたりして」完全に選別から外れてしまうかも知れません。

 

 

🖌️

ただ、これは、

あくまでも、《賢いおとめ級》が、

この譬(たとえ)でいう

《真夜中》までに、整えられていた場合です。

 

🖌️🖌️🖌️✍️

ここで、新たに霊的な光が射し込んで来ました。

 

 

つまり、主人が遅れてから、

144000人級の中の、《全て》ではなく、

ヤハウェの望まれる数》が

《整えられていた場合》です。

144000人級の中の、 

ヤハウェの望まれる数》が

《整えられていた場合》です。

 

しかし、その数にも到達していなければ、もしかしたら、

最後の予定日になる場合も十分考えられる、という事です。                 

 

もう少し詳しく解説しますと、

 

「真夜中」

(午後9時から夜中の12時)    

 

 

ここで「真夜中」と表現されていますが、時計では、

9時

10時

11時

12時

と、これくらい

のひらきがある、という事です。

 

ですから、主人(花婿)が到着するのが、

「真夜中」に、となっていますが、これを年で考えるなら、

「真夜中」だけでも、

かなりの期間の間隔がある事になります。

 

ですから、「真夜中」と言っても、

ヤハウェが設定されているであろう時は、一度や二度だけではない、という事になります。

 

 

そして、この譬(たとえ)では、

あくまでも、「真夜中」で設定しているだけで、それまでに、

144000人級の、

ヤハウェの望まれる数》が整えられていなければ、

 

更に遅れて、

最後の予定日になる事も十分考えられる、という事です。

 

つまり、144000人級の中の、

霊的に整えられた、

ヤハウェが望まれる数の、それにあたいする者たち》が、 

「賢いおとめ」級を構成して、

最初に上げられる者たち、という事です。

 

「愚かなおとめ」級は、144000人からは外れますので、

その他の仮選別者の中からヤハウェによって召され、

大バビロン崩壊後に上げられる、という事になります。

 

これが、今回の新たに霊的な光として射し込んで来た、最新の解釈です。

 

しかし、その他の仮選別者の補充を加えても、

144000人に達していなければ、

当然、その時は先に延ばされる事になります。

 

ヤハウェが最後の予定日をいつくらいに設定しておられて、

それまでに何度、機会があるのかは後日、あらためて記事にしたいと思います。

 

しかし、もし、その最後の予定日までに、

「賢いおとめ」級と、補充として召される者の数が144000人揃わなければ、

ヨハネの黙示録が成就しなかった事になり、

悪魔サタン ルシファーは笑いが止まらないという事になります。

そう言う事です。

勿論、そのような事はおきないと、

ヤハウェは我々の可能性を信頼して下さっておられます。

私たちは、その期待に是非、

応えたいと思われるのではないでしょうか。

 

ただし、

エスが、このような譬(たとえ)を語られた、という事は、

144000人級の中から脱落者が現れる事は十分考えられますので、身を引き締めて、ヤハウェや隣人への愛を培う点で、後悔のないようにしたいと思います。

 

(*因みに、ヤハウェが、144000人級の中の何人くらいが整えられている事を望んでおられるのかに関しましては、別の預言から後日、解説出来たらと思います。)

 

 

✍️

さて、

補足情報としておさえておいて頂きたいのですが、

例えば、

マタイによる福音書24章48節からを見ると、

「しかし、それが悪い僕で、主人は遅いと思い、仲間を殴り始め、、、」

 

そして、

ルカによる福音書12章45節からを見ると、

「しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、、」

 

このマタイによる福音書24章や、

ルカによる福音書12章に登場する

「僕」とは誰を表しているのでしょうか?

ここで登場する「僕」は、

与える側

受ける側

共に144000人級を表しています。

 

ですから、

「僕」

「使用人」

「召し使い」

「男女の召し使い」

「下男や女中」

と、

色々と表現されていますが、

これらは皆同じ144000人級を表しています。

つまり、集合体としての、

144000人級を表す場合と、

 

144000人級の中の個々を表す場合です。

 

例えば、群れの監督者は、基本的には、与える側と思われるでしょうが、

ある時は与える側の僕

ある時は受ける側の僕です。

 

ですから、これらの譬(たとえ)で表現されている、

「僕」であり、

「使用人」であり、

「召し使い」であり、

そして、ある時は、

「男女の召し使い」

「下男や女中」だということです。

 

なぜそのように言えるのか、については、又、後日解説出来たらと思いますが、

 

今回皆様にお伝えしたいメッセージは、

「主人」が遅れた時が、

一番心に《隙》が生じます。

それは、

エスが語った他の譬(たとえ)からも分かります。

 

ただ、この記事を読んで下さっている皆様も、その事は重々承知しておられると思います。

 

 

では次回、イエスが語られた別の譬(たとえ)から、更に、144000人の奥義に迫ってゆきましょう。

     

この記事を読んで、少しでも霊的な益が得られたと思われましたら、

是非、ヤハウェに感謝して頂けたらと思います。

 

この機会に、YouTubeで、聖書の正確な知識を学びたいと思われる方々は、From KSRG様の、

YouTubeチャンネル From KSRGから学んで頂けたらと思います。

 

こちらから

https://youtube.com/@fromksrg8450

 

 

そして、ブログからは、YouTubeでは語れなかった内容満載の記事が更新されています。

 

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