144000人の奥義「補足情報」(15)《あなたは自分を本当に捨てることが出来ていますか?》

今回は、福音書の中に名も記されていない、ある人物から教訓を学んで行きましょう。

 

まず、ルカの福音書22章7~13節を見ると、

(新改訳2017)

「過越の子羊が屠られる、種なしパンの祭りの日が来た。

エスは、

『過越の食事が出来るように、行って用意をしなさい』

と言って、ぺテロとヨハネを遣わされた。

彼らがイエスに、

『どこに用意しましょうか』と言うと、イエスは言われた。

『いいですか。都に入ると、水がめを運んでいる人に会います。

その人が入る家までついて行きなさい。そして、《その家の主人》に、

【弟子たちと一緒に過越の食事をする客間はどこか、と先生があなたに言っております。】

と言いなさい。

すると主人は、

《席が整っている二階の大広間》を見せてくれます。

そこに用意をしなさい。』

彼らが行ってみると、

エスが言われたとおりであった。それで、彼らは過越の用意をした。」

と書いてあります。

 

ここで述べられている

《主人》とは誰なのでしょうか?

 

弟子たちの顔見知りではないようです。

 

マタイによる福音書26章18節

(口語訳)

を見ると、

 

「イエスは言われた、

『市内にはいり、

《かねて話してある人》の所に行って

言いなさい、

【先生が、わたしの時が近づいた、あなたの家で弟子たちと一緒に過越を守ろうと、言っておられます】』。」

と書かれてあります。

 

口語訳のこの部分を見ると、

 

この主人について、

《かねて話してある人》と訳されています。

 

つまり、この主人に、

エスは《事前に》、過越の祝いを弟子たちと行ないたい旨を知らせておいたことが分かります。

 

当時のユダヤ社会において、

過越は、1500年以上続いてきた重要な祭り、祝い事でした。

 

ですから、過越を誰と祝うのか?

というのも、とても大切なことだったと言えます。

 

では、この名前も記されていない主人とは何者だったのでしょうか?

 

実はこの主人は、

以前にも、《名もなき者》として、イエスの預言の成就に貢献していました。

 

マタイによる福音書21章1~4節

(新共同訳)

「一行がエルサレムに近づいて、

オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、

エスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。

『向こうの村へ行きなさい。

するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に《子ろばのいる》のが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。

もし、だれかが何か言ったら、

【主がお入り用なのです】

と言いなさい。

《すぐ渡してくれる》。』

それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。」

と書かれてあります。

 

この時、

《子ろばを用意していた人物》です。

 

この人物は、二度にわたって、

エスに貢献しました。

 

恐らく、ヤハウェに用いられたものと思われますが

では、なぜ、福音書に名前が記されていないのでしょうか?

預言の成就に貢献し、

更に、最後の晩餐で、新しい契約を発行させる場を提供したにも関わらず。

 

✍️

いくつか考えられることとして、

まず、この人物は、ある程度、資産を有していた、ということ。

そして更に、《傾向》として、

《目立ちたい》、という欲求があったのかもしれません。

ですから、聖書筆記者たちに、

自分の名前を記さないよう頼んだと考えられます。

 

そして、そのような傾向を克服するように努めたのでしょう。

西暦61年頃に、ルカによって記された、

使徒行伝には名前が記されています。

又機会があれば、誰だったのか?

記事でお伝えしたいと思います。

 

さて、

福音書に、名もなき人物として登場してくるこの主人は、

最初は、自己顕示欲、承認欲求が強かったのかもしれませんが、

ヤハウェに可能性を見て頂き、本人も、そのような悪魔の世的な傾向を克服したのです。

 

このことから、今日の我々はどのような教訓を学ぶことが出来るでしょうか?

 

不完全な人間である以上、誰もが、多少なりとも、そうした傾向はあるかも知れません。

しかし、

ここで、自分がヤハウェの側にいる《根本的な動機》が、

ヤハウェへの愛

そして、 

他の人への愛、或いは、

他の人の福祉に対する誠実な関心ゆえか?

ということです。

今、そのことが試されている、

特別な期間に入っている、ということを忘れてはならないでしょう。

 

エスは言われました。

 

マタイによる福音書16章24節

(新共同訳)

「わたしについて来たい者は、

自分を捨て、

自分の十字架を背負って、

わたしに従いなさい。」

 

と書かれてある通りです。

 

利他的な愛は、他の人の言動、行動等に全く影響されません。

実際、他の人に何かを認められる為に、我々は存在しているわけではありません。

他の人が、自分のことを、中傷しようが、批判しようが、何と思おうが、その他もろもろ、

(※勿論、いわれのないものです)

 

こちらは、他の人の福祉に誠実な関心を抱き、愛を示すだけです。

(※その中にはこころよく許すことも含まれるでしょう。)

そうするなら、イエスが言われた次の聖句が成就することになるでしょう。

 

マタイによる福音書5章48節

(新共同訳)

「だから、

あなたがたの天の父が完全であられるように、

あなたがたも完全な者となりなさい。」

 

 

 

引き続き、

yahweh-ksrg's blog様の最新記事に注目して頂けたらと思います。

 

もし、皆様の中で、可能な方は、

新改訳2017年版の聖書を購入されることをおすすめ致します。

勿論、どうしても、ということではありません。

可能な方は、ということです。

 

 

yahweh-ksrg's blog様から、聖書の最新解釈記事が更新されています。

https://yahweh-ksrg.hatenablog.jp/about