「神の言葉はとこしえに残る」(12)を読んで感じた事

この記事は下記の記事を読んで黙想、自問、更には、個人的に、KSRG様から得た情報、更に、プレイヤーをしてインスピレーションが降りてきた内容となっています。

https://yahweh-ksrg.hatenablog.jp/entry/2022/09/21/213034

 

この記事を読んで、まず感じた事は、聖書は、ただ読むだけでは、益は得られない、という事です。

その事を強く感じました。

確かに、聖書は、神のみ言葉なので、読んで直ぐに理解出来る聖句もあるにはありますが、正しく理解した上で、熟考するなら、まず、間違いないでしょう。

それで、ヤハウェは、モーセの時代から祭司や裁き人、預言者などを用いて、御自分の民を導いてこられた、と言う事でした。

しかし、ユダヤ人たちは、ヤハウェに対する不従順ゆえ、懲らしめの為に、ヤハウェからの保護が取り除かれ、紀元前586年に新バビロニア帝国によって、まず、ソロモン神殿が壊滅させられ、生き残った残りの者たちは、捕虜として連れて行かれました。

その中にはダニエルがいた、と言うのは、ダニエル書に記述されています。

更に、同時期に、エレミヤ、エゼキエルが、別の場所で預言者として用いられていたそうです。

これは、KSRG様からお聴きした事ですが、流刑にされたユダヤ人たちは、バビロン内ではあっても、ヤハウェを崇拝したい者は自由に崇拝出来たそうです。

なぜならダニエルと3人の忠実な若者が、その基盤を築いたからでした。

でも、不忠実な者たちは、バビロンの習慣や文化、宗教や哲学に染まってしまった者もいたようです。

それから、バビロンが壊滅し、ユダヤ人たちは故国に帰還し、再び、真の崇拝が回復する訳ですが、その時も、ヤハウェは、民を教育する為の備えを設ける為に、聖書を理解出来るよう、ある者たちを用いられた、と言う事です。

しかし、ゼルバベルとヨシュアによる統治権が無くなると、ユダヤの体制は、徐々に、ヤハウェから離れて行く事になります。

そして、ユダヤ教の最高法院(サンヘドリン)が、ユダヤの体制を支配するようになり、弱者が虐げられる体制へと変化して行きました。

そして西暦一世紀に入り、いよいよメシア(キリスト)が到来しようとしていた訳です。

ユダヤ人全てが、そのメシアの到来を待ち望んでいました。

ルカによる福音書3章15節を見ると、

「民衆はメシアを待ち望んでいて、、、」

と記述されています。

しかし、ユダヤ人たちは、イエスが30歳になるまで、イエスがメシア、つまり、キリストだと言う事に、気づきもしなかった、更に、イエスヨハネバプテスマを受けた後も、キリストが誰なのか分からなかったそうです。

そのような中で、ヤハウェが引き寄せた者たちは、イエスを、キリストと認める事が出来た、と言う事でしょう。

ヨハネによる福音書1章40、41節を見ると、

ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン.ぺトロの兄弟アンデレであった。彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、『わたしたちはメシアー(油を注がれた者)という意味ーに出会った』と言った。」

と、このように書かれてあります。

当時、イエスをメシア、キリストと認識出来た者たちは、なんと幸いだったのでしょう。

ヤハウェが引き寄せて下さらなければ、イエスのもとに来る事は出来なかった、と考えると、

もし、自分が当時の弟子だったとしたら、どれだけ、ヤハウェに感謝したでしょうか。

そしてイエスは勿論、聖書をただ朗読するだけではなく、その意味も明瞭に解き明かされた訳です。

 

そして、イエスが昇天した後も、ヤハウェが、今度は、当時のユダヤの体制で、誰を用いているのか、見定める必要がありました。

そのしるしは、聖霊です。

使徒行伝8章には、このような記述があります。

26節からを読んでいくと、エチオピアの宦官が登場してきます。

それで、その宦官は、聖書のイザヤ書53章を朗読していましたが、意味が全くつかめなかった訳です。

そこでピリポ(フィリポ)がヤハウェに用いられる訳ですが、

新共同訳の訳を使うなら、使徒言行録6章3節で、フィリポは、

「霊と知恵に満ちた評判の良い人、、」

そして、5節では、

「信仰と聖霊に満ちている人、、」

と表現されています。

 

☆では、ここでクエッションです。

確かに、フィリポは聖霊に満たされていたかも知れません。

それゆえ、独特の爽やかさを醸し出していた事でしょう。

そうだったとしても、

なぜ、エチオピア人の宦官は、

当時のサンヘドリンの正員から、教えを仰ぐのではなく、フィリポからの教えを受け入れたのでしょか?

これは、KSRG様から個人的にお聴きした事ですが、

当時のユダヤの最高法院サンヘドリンは、ユダヤ人ではない改宗者に関しては、多額のお金を支払った者には、自分達の都合の良い、個人的な解釈に基づいた教えは、与えていたそうです。

更に、この宦官は、決して貧しくてお金がない訳でもなかったそうです。

では、なぜエチオピアの宦官は、フィリポから教えを受け入れたのでしょうか?

これが、今回のこの記事の要点です。

 

それは現在に置いても原則的には同じです。

 

ヨハネによる福音書6章44節には次のように書かれてあります。

 

「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、誰もわたしのもとへ来ることはできない、、、」

 

つまりヤハウェが引き寄せて下さらなければ、聖書を理解する入口に立てない、と言う事です。

 

現代に置いて、ヤハウェに引き寄せられ、聖霊によって正確な知識を教えられているところ、

それはどこでしょうか?

このブログの記事を読んで下さっておられる方々なら分かると思います。

では、なぜ、我々は、聖書を正しく理解するような仕方で読む必要があるのでしょうか?

 

答えは、ヤハウェのみ旨を行う為です。

中には、神のみ言葉である聖書から、慰めや希望、励みや爽やかさを得て、それで満足している方々もおられるかも知れませんが、

我々は、あくまでも、ヤハウェのみ旨を行う為に、聖書を正しく理解しようとしている、ここから、決してぶれるべきではありません。

ヤコブの手紙1章22節に次のように書かれてあります。

 

「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません」

と書かれてある通りです。

 

今回は少し長い内容となってしまいましたが、

最後に、ヤハウェは、こんな塵にも等しい自分のような者を、この悪魔の世が、まさに終わろうとしているギリギリのところで、引き寄せて下さり、

更に、ヤハウェのみ旨を行う為に、聖書を正しく理解させて下さった事に心から感謝し、又、144000人級が一人も脱落することなく、更に、一人でも多くの方々が選別される事を願い、今回は終わりにしたいと思います。

最後まで読んで下さってありがとうございました。